ガーデンプロジェクト

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ハードラックにバッドガイ

著:天酒之瓢

 思うに、ロバート・オーケルマンの人生は不運ハードラツクの連続だった。

「おいおい……いったい俺が、何をしたって言うんだよ」

 小さな失敗は数え切れず。上手くいったと思った時ですら、思わぬ落とし穴が待ち構えているのが常だった。何をやっても具合が良くない。挙げ句の果てには裏切りだ。

「……あいつが? そうか。ついに、そこまで墜ちちまったんだな」

 嘆息は、どこか納得の色合いを含んでいた。貧しさがへばりついて離れない彼の人生であったが、それでも友と呼べるだけの者はいた。喰うに困った時に僅かな食料を分け合い、倒れそうな時に肩を貸しあってきた。
 彼は何も持っていなかったが、人との絆は残っていた。

 ――そう、思っていた。つい昨日までは。

 それが幻想だったと気づいたのは、恐ろしくガラの悪い男どもが彼の寝床に踏み込んできた時である。
 男たちは潰れた虫の死骸みたいな字で書かれた証文をつきつけ、彼の友人が借金を踏み倒して消えたとわめきたてた。さらには、彼が借金を肩代わりすることになっているということを。なんてことはない、なすりつけられたのである。
 いまさらこの程度の不運ハードラツクを嘆くほど彼は繊細ではなかったが、それでも友の裏切りはこたえた。泣くにも泣けず、乾いた笑いだけが止めどなく漏れ出 る。

「はは、はははっ。そりゃごくろうなこった。だがそんな紙切れつきつけたところで、俺に金なんざねぇぞ。素直に奴を追うんだな」
「もちろん追うさ。だが、てめぇも逃がしはしねぇ」

 投げやりになったロバートはロクな抵抗をすることなく、男たちによって連行されていった。辿り着いた先は貧民街の端にある、飛空艇用の港である。

 うら寂れた貧民街の一部でありながら、ここは活気に満ちていた。
 彼らの暮らすこの島――《アーケイン=ガーデン》は、空中に浮かんだ島である。かつて存在したという母なる大地は、いにしえの時代に悪しき存在との戦いの果てに海へと沈んだ。
 今となっては、はるか高空に浮かぶ島々が、人々の生活の舞台となっている。
 そうしてこれらの島に暮らす人々にとってなくてはならない足となるのが、魔法の力を利用して空を渡る船――《飛空艇》なのだ。

 えた臭いとけだるげな諦観が名物の貧民街だが、港は例外的に活気にあふれている。ここには仕事がある、金がある、チャンスがある。生きるために必要な多くのものが、煌めきを発している。
 そのどれもが、今のロバートには関係のないものだった。彼は死刑囚のような気持ちでもって、男たちに促されるまま歩いてゆく。

「おい、こんなところで何をさせようってんだ。埠頭から突き落としても、金にはならねぇぞ」
「するかよ、そんな無駄。なぁに、簡単な話だ。金がねぇなら稼いできてもらうまでってな。ホラ、あれだよ」

 今しも港に入りつつある一隻の飛空艇を目にして、ロバートの表情が呆気にとられたものへと変わる。
 それは、巨大な船だった。複数のブレード状推進器が突き出た姿は、どことなく獣の爪じみた雰囲気を漂わせている。獲物を狙う、獰猛さを漂わせた船だ。
 しかしこの船は、別の意味でもって貧民街にその名をとどろかせているのである。

「こいつはまったく、ツイてないぜ……」

 不幸は、どこまでも彼のケツに食らいついてくるらしい。嘆きの言葉を娑婆に残して、彼は船へと乗り込んだ。



 ――《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》

 実に輝かしい名前と大仰な外観の割に、中身はまったくもってしみったれた船である。
 内装はどこもかしこも薄汚れていて、べったりと年季がへばりついている。仕事に使う機材はそれなりに立派な反面、生活設備は最低限でしかなく。いきおい、気遣いなどという言葉とは無縁の世界が広がることになる。

「はぁ……。こうも狭苦しいと息が詰まるってもんだ。そうは思わないかい? 兄弟。だからこそ、俺たちには娯楽が必要なわけだ」
「知るかよ」

 ロバートは生返事をしながら、手の中のカードを眺めた。まったくなんの役も為さないブタだ。ちらりと、目の前の男を盗み見る。《ヨーゼフ》と名乗ったその男は、しばしば彼をカードゲームに誘ってきた。
 昔から運には見放されているのだ、賭け事ゲームになど参加しなければいいものを、つい手を出してしまう。あるいはカモだと見抜かれているのかもしれない。

「そうだろう? こうやって猟の獲物みたいに詰め込まれているよりは、有意義ってもんだ」
「いいから、黙りやがれ」

 ヨーゼフが肩をすくめて周囲を示した。
 船室には彼ら以外にも、似たような境遇の男たちが押し込められている。ただでさえしみったれた船に余裕などあるはずもなく、彼らは当然のように大部屋での共同生活を余儀なくされていた。人間に対する扱いとは到底思えない、まるで空いた場所に荷物を詰め込みましたという印象すら漂っている。

 そんな部屋だから、清潔感などどこを探しても見当たらない。饐えた臭いのする毛布だけを与えられ、男たちが雑魚寝している。
 空の上を進む飛空艇において、水は貴重品である。身体を洗う機会など皆無であり、ごく当たり前の結果としてまず鼻からイカれることになる。食事の匂いがわからなくなったあたりで、ようやく半人前というところだ。

 寝っ転がった男たちの間を、綿毛の塊に細長い脚が生えた生き物がすばしっこく這っていった。男の一人が、苛立ち紛れにそれを踏み潰す。生き物は、鳴き声ひとつ残さず床の染みと化した。

「おいおい、綿雲虫を邪険にするもんじゃないぜ。こいつがいるってことは、浮遊岩塊地帯が近いってことだ。良い報せだってのによ」
「知るか。ちょろちょろしやがって、こういうのを見るとイラつくんだよ」

 ロバートの眉間に、しわが刻まれる。気に障る会話だった。それ以上に、手の中が気に入らないだけかもしれない。
 彼は精一杯の無表情を装ってチェンジした。代わりに配られたカードを眺めて、耐えきれずに頬が引きつる。

「そのツラだと、ダメだったようだな。ほらよ、コールだ」
「……だから、俺はツイてないんだよ」

 投げやりにカードを放り投げる。ブタのままの手札がバラバラと散らばった。
 ヨーゼフがにんまりと笑い、チップをさらってゆく。ロバートは無表情に、それを見送っていた。

 船に乗っている労働者は例外なく文無しである。このチップにかかっているのは船を降りた後の報酬だ。借金のカタに放り込まれた場所で、彼はまたも負債を積み上げているわけである。

 そんなふうに男たちが思い思いに過ごしていると、部屋の薄い扉がもげそうな勢いで叩き開かれた。
 のっそりと、人よりも獣に近そうな凶悪なかおが覗きこんでくる。この雄々しい顔つきの持ち主は、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》の船長であった。
 彼は無精ひげに覆われた口を開き、割れ鐘のような声で怒鳴る。

「おいこら無駄飯ぐらいども、喜べ! 仕事の時間だ、クソを垂れる以外にもやることができたぞ!!」

 誰一人として喜ぶ者などおらず、首をすくめるばかり。それでも、船の中で船長の言葉は絶対である。男たちは、億劫げな様子でのろのろと動き出したのであった。



 ――浮遊岩塊地帯、と呼ばれる場所がある。

 《アーケイン=ガーデン》をはじめとする島々は、超大型魔導器が発生させる結界によって空に浮かんでいる。しかし結界は完璧ではなく、わずかずつ周囲に力が漏れ出しているのだ。
 《魔導鉱》と呼ばれる鉱石がある。この鉱石は魔法の力に反応しやすく、漏れ出した力を受けて勝手に空に浮き上がってしまうのだ。かくして、空には大地の欠片が漂うことになり。気流に乗って漂い集まり、いつしか無数の岩塊が浮かぶ場所を作り上げていた。
 それが、浮遊岩塊地帯である。

 こうして漂う岩塊は、内部に魔導鉱を含んでいる。これは有用な資源となるため、人々は浮遊岩塊を利用し始めた。そうして生み出されたのが、《岩牽き》と呼ばれる者たちであり、岩石曳航船である《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》なのであった。

「おうおう、ごろごろ浮かんでやがるなぁ」
「風切鳥の群れみたいだ」
「この中から当たりを探すだって? 冗談だろう」

 浮遊岩塊地帯には無数の岩が浮かんでいる。しかし残念なことに、この中で鉱床として有望なものはほんの一握りだ。わざわざ強力な曳航能力をもつ《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》を出しているのだから、半端な岩を持ち帰っても仕方がない。

 よって当たりを見つけるまで、船はひたすら浮遊岩塊地帯を彷徨うことになる。《岩牽き》の仕事が、恐ろしく人気がないのもむべなるかな。所詮は危険リスクばかりが多い、山師の仕事なのである。

「この世の果てみたいなところだ」
「止めろよ、縁起でもねぇ」

 労働者である男たちの表情には、濃い諦めと微かな期待がある。それでも視線は空に浮かぶ岩塊へとくぎ付けになっていた。あるいは見つめていれば、中から希望が湧き出でてくるとでもいうかのように。

「……面白い景色だな」
「ケッ、なんでもいいさ。さっさと鉱石の詰まった岩ぁ見つけて帰りたいぜ」

 ロバートは呆然と岩塊を見つめていた。
 ひとくちに岩塊と言っても、大きさは様々である。人間程度の大きさから果ては飛空艇の数倍は巨大なものまで、岩塊は漂い続けるのみ。
 人生を転がり落ち続けてここまできたが、景色に感じ入る心までは失っていないようである。

 悲喜こもごもの労働者とは異なり、船員たちの動きは手早かった。彼らはもう何度もここにやってきているのだ。今さら何の感傷も湧きあがりはしない。

「ようし……まずはあれからだ。クソどもが、さっさと準備しろ!」

 容赦なく男たちのケツを蹴り上げる。悲鳴と罵声が上がるが、力関係は明確だ。労働者たちは、ノロノロと動き出していた。

 船長が示した岩塊は、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》よりも一回りほど巨大なものだった。このくらいの大きさが、船の曳航能力にとってちょうどよい。

「投錨じゅーんびー!」
「準備よーし!」
「よーし、狙いつけー!」

 船の後部甲板には、多数のバリスタが並べられている。船員にどやされるまま、労働者たちはバリスタにとりついて操作を始めた。軋みを上げながらバリスタが向きを変え、岩塊へと狙いをつけてゆく。

「狙いつけよーし!」
「放てー!」

 合図とともに、備え付けられたバリスタから錨が発射されてゆく。
 後端に縄を取り付けられた錨は、空中に大きく弧を描きながら飛翔し、岩塊の表面に次々と突き刺さった。

「固定よーし! クソどもきばれよ! まーきあーげー始めっ!!」

 船員にどやされて、労働者たちが巻き上げ機にとりつく。

「くそっ、偉そうに急かしやがってよ!」
「静かにしておけ、聞かれると面倒だぞ」

 その中にはヨーゼフとロバートも交じっていた。彼らだけではなく、周囲の労働者たちも一様に顔をしかめている。だが、ここで無駄な反抗心を発揮しても面倒が増えるだけである。

 男たちは、よってたかって手回し式の巻き上げ機を回した。錨につながった縄のゆるみがなくなってゆき、張り巡らされた菌糸のように、船と岩塊の間をつなぐ。
 多数の歯車をかみ合わせた巻き上げ機は十分な力を発揮し、船と岩塊の距離がゆっくりと縮まっていった。

 岩との距離が近くなるほどに、労働者たちが怯えだした。岩塊は、巨大だ。ゆっくりではあるが迫って来る景色には、慣れているものでさえ圧迫感を覚える。

「よし! 巻き上げ止めだ!! 岩に着くぞ、てめぇらヘマして落ちるなよ!!」

 船長が怒鳴ると、労働者たちは表情を変えて手すりに飛びついた。間に合わず、甲板にへばりつく者もいる。命綱などというものは支給されていない、己の筋力だけが頼りだ。
 中でもロバートは顔を引きつらせてガッチリと手すりに抱き着いていた。不幸さには自信がある、ここでしくじっても何の不思議もないのだ。

「頼むぜ、俺の悪運。こんなところで終わるなよ……」
「おいおい、ずいぶんビビってんじゃねぇか」
「うるせぇ。俺は真剣なんだよ」

 隣のヨーゼフとて強がっているものの、そう気楽というわけでもなかった。

 やがて、船と岩塊の距離がゼロになる。接触部には緩衝材をつけてあるとはいえ、衝撃を殺しきることはできなかった。
 突き抜けるような衝撃と、低い唸りとともに船が揺れる。幸いにして誰も落とされることはなく、甲板にはわずかな安堵が漂っていた。

「おうしお前ら、ぐずぐずするな! 調査始めるぞ!! 誰かあの偏屈爺を呼んで来い!」

 すぐに船長のだみ声が響き渡り、指示を受けた船員たちが慌てて走り出してゆく。
 その間に、労働者たちは船と岩塊の間に縄梯子をかけていた。錨につながった縄を手すりに、即席の通路を作るのである。

「本当に、ロクでもねぇな、この仕事!」
「まともな仕事なら、借金背負って送り込まれたりはしないだろう」
「違いない」

 二人も縄梯子を担ぎ、通路を補強していた。
 ある程度進むと、次は身軽な船員が縄梯子を担いで岩を登り始めた。わずかなでっぱりを頼りにひょいひょいと進み、途中でくさびを打ち込んで梯子をつないでゆく。

「すげぇなぁ。あれ人間業かよ」
「てめぇら! 無駄口叩いてんじゃねぇぞ! さっさとつなげてこい!」
「へいへい……」

 身体に縄を括り付けた労働者たちが、後に続く。彼らが縄梯子を補強し、岩塊を登りやすくするのだ。
 いちおう命綱をつけての作業ではあるが、少ししくじればそのまま空に投げ出される。島の住民にとって、大地の外で死ぬことは殊の外忌避されることだ。労働者たちは皆必死で縄にしがみつき、悲痛な表情で岩を登っていった。
 そうした彼らの涙ぐましい努力の結果、船と岩の間にはそれなりにしっかりとした道が作り上げられたのだった。

「ふぅぅむ……。久々の岩じゃなぁ。はよう味わいたいもんだ」
岩爺いわじい、来やがったか」

 そうしていると、船員たちに連れられて、一人の老人が甲板へとやってきた。枯れ木のような手足をした、皺だらけの老人である。明らかに肉体労働には不向きな風体だが、船員はおろか粗暴な船長からですら、一種丁重な扱いを受けていた。

「道はもう、できておるな? 老人を待たせるものではないぞ」
「おう、準備は終わってる。いつも通りに頼むぜ」

 ぎょろりと視線を巡らせ、老人は浮遊岩塊へと向かって歩き出した。皺に覆われた顔のなか、眼だけが異様な輝きを湛えている。
 突き出た鷲鼻をひくひくと蠢かせ、ひとりごちる。

「あまり、臭ってこんなぁ。これは期待薄だが。さてどうだろうかのぅ」

 軋みを上げそうなぎこちない動きで首をかしげる。この老人は、動きの全てが不自然だった。労働者たちはそろって気味悪げに、彼を遠巻きにしていた。
 しかし当人に周囲を気にする様子はなく。見た目からは意外なほどの身軽さでもって、岩塊に張り巡らされた縄梯子を登っていった。

「……この船に、まともな人間はいないのか」
「俺らだって、人間としちゃあ扱われてねぇさ」
「違いない」

 ロバートたちが呆然とその様子を見つめていると、船長の怒鳴り声が響いてきた。

「おいお前ら、ぼうっとしてんじゃねぇ! さっさと掘削の準備をしろ!」

 労働者たちが慌てて動き出す。岩を掘るための道具類を背負い、岩爺の後に続いた。重い道具を抱えた労働者たちが進むほどに、縄梯子がギシギシと嫌な音を立てる。努めてそれを無視しながら、彼らは岩を登り切った。

 岩爺が、岩塊にへばりつくようにして何かを調べていた。よく見ると、鼻を蠢かせて臭いを調べているらしい。
 あまりにも奇怪な行動であり、労働者たちすら顔をしかめている。
 やがて岩爺は、岩塊の一角を指し示した。船員が頷き、労働者たちを顎で使う。

「おい、ここだ。掘れ」

 男たちは命じられるまま、ごつごつとした岩塊の表面を掘った。汗だくになりながら岩を砕き、穴を広げる。
 しばらくすると岩爺が動き出し、砕かれた岩の欠片をつまみ上げると、躊躇なく口に放り込んだ。

「ううえぇっ……」

 誰からともなく呻きが上がる。ここに集められた労働者は、誰もが世間の底に暮らしてきた、それこそ泥水を啜るような生き方をしてきた者もいる。しかしだからと言って、好んで岩を喰うようなことはしない。

 岩爺は周囲の視線など毛ほども気にせず、そのまま欠片をゴリゴリとかみ砕いた。果たしてこいつは本当に人間なのか。疑問渦巻く中、岩爺は岩石をじっくりと咀嚼し味わってから吐き出した。

「ダメじゃな。ロクな味がせん、こいつは外れじゃ」
「これでわかんのかよ……」

 恐ろしいことに、これが彼の測定方法らしい。呆気にとられる労働者を他所に、船員たちはあっさりと頷く。

「ちっ。岩爺がいうなら仕方ねぇ。おい、引き上げだ! 梯子も片づけんぞ」
「えっ……マジかよ! これを信用するのか」

 どうやら恐るべきことに、岩爺のやり方は信頼されているらしい。船員たちの動きは速かった。
 さっさと船へと戻る彼らの後に、労働者たちが渋々と続く。なんのために苦労して梯子を架け、岩を掘ったのか。不満も生まれようものだが、口にする者はいなかった。

「あれでわかんのかよ。人間じゃねぇな」
「なんでもいい。とりあえず片づけんぞ。急がないと、飯が遅くなる」

 労働者たちは重い足取りで撤収する。苦労して架けた縄梯子を外し、錨を回収した。
 そうして自由を取り戻した船は、喰い荒らされた岩塊を後にする。

「こんなことを続けるってのかよ……」
「早くお宝にありつきてぇな」
「本当に、ツイてねぇ」

 この先の航海を思って暗澹あんたんとした気分に陥るロバートらを乗せ、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は次の岩塊を目指して出発するのだった。



 岩牽きの仕事というのは、とにかく当たりを引くまでが過酷であるという。
 《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は浮遊岩塊地帯を彷徨い、何度も外れを引いた。
 ここには無数の岩が浮かんでいる。そのうちどれが有望な鉱床となるかなど、神ならぬ人の身にわかるはずもなく。できることと言えば、とにかく数を当たるしかない。

 いくつもの岩塊に登り、見送るたびにロバートではないが「ツイてない」と愚痴がこぼれる。やる気が失われること著しいが、手を抜こうものならば船長から罵声が(大抵、拳もともに)飛んでくるのである。労働者たちに退路はなかった。
 来る日も来る日も彷徨い、岩塊にへばりつく生活。誰も彼もが疲れ果ててゆくなか、それは起こった。

「ほう……」

 労働者たちがいつものように岩塊に梯子を架けていると、岩爺がひくひくと鼻を動かし呟いた。これまでにはなかったことである。

「ふぅむ、これは良い岩じゃ……。ここまで臭ってきおる」

 ぶつぶつと呟く老人は、明らかに興奮し、涎をたらさんばかりの様子であった。おかげで労働者たちにはいつにも増して遠巻きにされている。

「餌を前にした屍喰鳥グールバードかよ」
「口を閉じとけよ。余計なことがあいつらの耳に入ると、分け前減らされるぞ」

 ロバートが忠告すると、ヨーゼフは苦々しげな表情で黙り込んだ。岩爺がどのように振るまおうとも、彼らの仕事は変わらない。それこそ死人のような足取りで梯子を架け、荷物を担いで岩に登る。
 のろのろと登る労働者たちを追い越さんばかりの勢いで、岩爺も岩塊へと乗り込んできた。この老人は明らかに興奮した様子で、岩塊にへばりつくようにして這い回っていたが、やがて一点を指し示した。

「ここじゃ……なんという強い香りか。これほどのものは、嗅いだことがない。お前たち、はよう掘り起こせ!!」
「そんなに自信があるのか。よし、爺さんはちょっと下がっとけ。お前ら! 準備はいいな!?」
「へーい……」

 船員が指示を下すと、ツルハシやスコップをもった男たちがぞろぞろと集まった。ざくざくと岩を掘り返し、穴を広げてゆく。
 深さがある程度になったところで、岩爺はいつものように欠片を口にした。もぐもぐと咀嚼し、味を確かめる。何度目にしても奇妙な光景であるが、今回はいつもより長いような気がした。

 労働者たちが訝しげに囁き合っていると、突如として岩爺が立ち上がる。
 皺だらけの顔に、ニィッと不気味な笑みが浮かんでいった。

「ほっほぅ! これは良い味じゃあ……。今までにないぞ、こいつは実に素晴らしい脈を持っておる!」
「本当か、爺さん! 聞いたか野郎ども! 今回はいい稼ぎになりそうだぞ!!」
「おおおおっ!?」

 船員が腕を振り上げると、労働者たちもそろって声を上げた。先ほどまでの無気力さはどこに行ったのか、現金なものである。
 とはいえここにいる労働者たちは、稼ぐためにこそこのような労働にいそしんでいるのである。目的が果たされることは、誰にとっても喜ばしいことであった。

「ようし、もう少し調べる。何ヶ所か掘るぞ! 半分は曳航の準備に入れ! こいつは持って帰ることにする!」

 船長があげた怒鳴り声に、この時ばかりは全員が応えたのであった。



 それから船と岩塊の接続が強化され、曳航の準備は整った。
 ここからが岩石曳航船たる《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》の真価の見せ所だ。

 《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は特殊な構造の船である。一基の大型魔導器を動力源とし、大型のブレード状推進器を五基、放射状に設置してある。これが掌のように見えることから、船名が決まったと言われる。
 このような配置をとるのは、曳航する岩塊との干渉を避け、かつ十分な推力を発揮するためだ。重量のある岩塊をこともなげに曳航しながら、すいすいと進むことができる。
 かくして船は、意気揚々と《アーケイン=ガーデン》への帰り道を進み始めたのである。

「もっとじゃ、もっと掘り起こせい」
「おい爺さん、もう調査は終わったんだろう? 本格的な採掘は島に戻ってからだぜ」

 船が岩塊を曳航する段階になっても、岩爺は岩塊に居座っていた。目を血走らせてさらに深く掘れと命じる彼に、周囲は手を焼いている。

「何を言っておる! 実に……美味だ。それに、味が強くなっておる。もうすぐだ、もうすぐ辿り着くんだ」
「後からでも変わらないだろうに」

 立場上やんわりと諌めているが、労働者たちにはうんざりとした様子がありありと見て取れた。彼らにしてみればすでに調査は完了しており、岩塊を島へと持ち帰ればそれで充分なのである。
 そんな時である。穴を深くしていた労働者の一人が、素っ頓狂な声を上げたのは。

「……? おい、何かあるぜ」

 労働者たちが穴を覗き込む。確かに、地面の一角に明らかに岩とは違った質感がうかがえた。彼らは顔を見合わせると、慎重にソレを掘り出しにかかった。

「こりゃあ……なんだ?」

 それは、奇妙な物体であった。自然物であるはずの岩塊にあって明らかに不自然な、恐ろしく滑らかな楕円形をしている。

「わかんねぇな。お宝か?」
「知らねぇけど、いちおう船長んとこもってくか。要らねぇなら、捨てりゃあいいだろ」
「うーん、こういうのは、古い魔導器かもしれないぞ」
「本当だったら、すげぇ儲けものなんだがなぁ」

 この岩塊も、元はと言えば大地の一部であったのだ。ごく稀なことであるが、大崩壊以前のものが埋まっている可能性もなくはない。いにしえの時代の品物には現代では再現できないものもあり、多くが高値で取り引きされる。それを狙って遺跡を回るトレジャーハンターなる職業が存在するほどなのだ。

 あれやこれやと言い合う労働者たちの間を、岩爺がふらつく足取りで抜けていった。眼は爛々と輝き、口から止めどなく涎をたらしている。明らかに、正気を欠いた様子だ。
 それから岩爺はゆっくりと楕円形の物体を手に取り、大きく口を開けて――。

「お、おい! 爺! 何してやがる!」
「あぶねぇ、高価な代物だったらどうするつもりだよ!?」

 かぶりつきかけたところで、周囲が割って入った。

「放せぇ! そいつだ、そいつを味わわせろ!」
「あぶねぇな……。おい、はやいとこ船長んとこもっていこうぜ。これ以上壊れたらどうするんだよ」

 岩爺の狂態には慣れているはずの船員ですらたじろぐほどだ。もはや手におえず、掘り出した物は船長に渡されることになった。

「で、もって来たってか」
「へぇ。岩爺に喰われるよりゃあ、と思いまして」

 船長は眉を跳ね上げ、楕円形の物体を見回す。恐ろしく滑らかで、確かに自然にできあがったものとは思えない。彼は魔導器に詳しくはなかったが、それが特別なものであることは何となく察することができた。

「本当に旧時代の魔導器だったら、すげぇ良い値で売れるはずだ」
「へへぇっ! そいつは何よりで」

 船長と船員たちは、にんまりと笑みをかわした。彼らとて稼ぎが欲しい、当然だ。船長は立ち上がると、その獣じみた顔に凶悪な笑みを浮かべながら労働者たちを見回した。

「おい、お前ら。このことは他の奴らには黙ってろ。値がついたら、少しばかり払いに色を付けてやる」
「へ、へぃ! そりゃあもう! 仰せの通りに」
「よ、よろしくお願いしますよ……へへ……」

 いかに魔導器が高値でさばけるとはいえ、頭数が少ないほうが分け前が多くなるに決まっている。労働者たちは、岩爺の世話をしてあまりある報酬を夢見てだらしのない笑みを浮かべていた。船にいる、他の大勢の労働者のことなど毛ほども考えはしない。自分たちにはツキがあり、他の奴らはツイていなかった。そういうことである。

 かくして、掘り起こされた物体は船倉に収められることとなった。他の者に悟られぬよう、船長と一部の船員だけで荷物を運ぶ。

「ふうむ、いつもより手間のかかる仕事だったが……思わぬ儲けになりそうだ」
「幸運でしたね。ずいぶん外れをつかんじまいましたし」

 船長は物体を棚に置き、にんまりと笑いながら表面を撫でる。
 すると、触れたところを中心として、表面に煙のような、波紋のような模様が走った。直後、彼は指先にねっとりと絡みつくような感触を覚える。

「なんだ……!?」

 船長は慌てて手を引っ込めようとして、動かないことに気付く。掌が吸い付いたように離れないのだ。そのうちに表面が波打つように蠢き、ずるりと隆起を始めた。

「こ、こいつ、起動したのか!?」
「船長! いったい何をしたんです!?」
「持っただけだ。いきなり……おい、どうにかしろ!」

 船長は普段の勢いはどこへやら、予想外の状況に慌てている。それは周りの船員たちも同じだ。彼らは魔導器など扱ったことがなく、どうすればいいかわからない。

 そうして彼らはあまりにも致命的な時間を、超えてしまったのだ。

 手をこまねいている間に、楕円形の物体は明らかに完全な覚醒へと移っていた。楕円形だった形がねじれて変形してゆき、動き出している。あちこちが隆起をはじめ、ゆっくりと根を伸ばし始めていた。
 おぞましい予感を覚え、ついに船員たちが逃げに入る。それを見た船長が、青筋を立てて怒鳴りつけようとしたところで。
 物体は完全な変形を終えて、細長い触腕を伸ばした。しなりながら飛び出た触腕が、船長と船員たちの首に巻き付く。

「げぐっ! こ、こいづ!」
「がっ……けはっ……こいつは……魔導器なんかじゃねぇ……こいつは……!!」

 彼らは皆、力自慢の荒くれだ。首に巻き付く触腕を引きちぎろうとするが、それらはびくともせず。やがて限界を超えて絞め上げられ、彼らは意識を失った。
 動く者のいなくなった船倉で、数本の触腕をはやした球体がずるりずるりと歩き出す。やがて中央から、真っ黒い触腕が伸びてきた。触腕の先端には、尖った何かの欠片が見える。光を拒む、どす黒い欠片。
 物体は、ゆっくりと欠片を船長の身体に差し込んだ――。



 その夜、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は浮かれた熱気の中にあった。

「野郎ども、ご苦労だったな。手間取ったが、今回は稼ぎにありつけそうだ。喜べ、少しだがてめぇらにもねぎらいってやつをやろう」

 船員の言葉に、抑えた歓声が返ってきた。普段はしみったれた毎日を過ごしている労働者たちだが、いつまでもそれでは息が詰まる。
 目当てのものを見つけたことで、夕食に酒が振る舞われていた。

「こんばんは多少浮かれても大目に見てやるが、あんまりひでぇヘマしやがったら雲鳥の餌にしてやるからな!」
「へいっ、気ぃ締めていきやす」

 表向きは神妙な態度を見せているものの、労働者たちの大半はすでに浮かれていた。ロバートとヨーゼフも例外ではない。誰も彼もが解放感に包まれ、帰った後の報酬に夢を見ている。

 ロバートは酒の入ったコップをゆっくりと傾けながら、長い吐息を漏らしていた。

「あとはこのまま、なにごともなく帰り着ければ上々だ」
「なぁに心配してんだよ。まっすぐ戻るだけじゃねぇか」

 呆れた顔のヨーゼフに、ロバートは眉を顰めて見せる。

「成功したと思った。こういう時こそ油断は禁物なんだ。いつもロクなことがなかった」
「心配しすぎだろ! それとも何か、カードの払いを気にしてんのか?」

 笑いながら背をバシバシと叩かれ、彼は喉を詰まらせる。上手くいかないことを想定しながら行動する、これはもう彼の習い性のようなものだ。とはいえ後は港に戻るだけ、特に危険な航路でもない。
 ようやく、彼も眉間の皺をとる。

「そうかもな……。たまには、ツイている時だって、あってもいいよな」

 そんな、淡い期待を抱きかけた時のことだ。
 つんざくような叫びが、船中を駆け抜けた。それは浮かれた喧騒を蹴り飛ばし、はっきりと全員の耳に届く。

「な、なんだ。誰だ!?」
「……今の声ぁ、船長くさいぞ」
「なんだぁ? てめぇの足に小便ひっかけたか?」

 軽口で誤魔化そうとするも、上手くいかない。先ほどの叫びは、ただ驚いただけとするにはあまりにも異常だ。さらに船長という人間が、驚くなどという繊細な感情を持っているとも思えない。

「……ああ、やはり。今度もツイていないな」

 その中でただ一人、ロバートだけが深く沈みこんでいた。コップに残った酒を一気に呷る。この後、何かが起こる。その前に、せめて酒は味わっておきたかった。

 そうして落ち着かない雰囲気を漂わせていると、不吉な音を立てながら扉が開いた。全員が息を呑んで見つめていると、ふらつく足取りで船長が入ってくる。

「せ、船長……? なんだ、何があったんですか。えらい叫び声が聞こえたような……」

 船員が、安堵の吐息と共に近づいてゆこうとして。言葉が、途中で途切れた。
 明らかに様子がおかしい。いつも意味なく威張り、隙あらば殴りかかってくるような荒んだ空気を纏っていた船長が、今は顔色は蒼白で、まるで夢遊病患者のように虚ろな表情をしている。

「ちょっと、おかしいですぜ。何が……」

 船員が、一歩後ろに下がった。瞬間、船長がぐるりと白目を剥いた。異常な挙動を前に、小さな悲鳴が飛ぶ。直後に、広げた口から触腕が飛び出した。
 船員はまったく不意を打たれ、まともに触腕が絡みついた。喉を怪力で絞め上げる。ギリギリと音を立てて絞め上げられ、船員までもが白目を剥いた。

「な、おい! くそ! 助けろぉ!!」

 唖然として固まっていたもう一人の船員が、正気に戻る。周囲の労働者たちも、慌てて動き出す。触腕をはがそうと掴み、食事用のナイフで切り付けた。

「クソ! 切れない! なんだこれ、どうなってんだよ!!」

 触腕は異様なまでに硬く、やわなナイフでは歯が立たない。その間にも、船員は事切れていた。

「ちくしょうめっ!」

 船員が、激昂して船長へと殴りかかる。もはや立場など関係ない。
 拳は正面から船長の顔面を捉え、殴り倒した。全員が言葉もなく見つめる中、船長だったものは、殊更にゆっくりとした動きで起き上がってくる。

 もはやその場にいる誰も、それが船長であるとは思っていなかった。なぜなら口や背中が裂け広がり、内部から多数の触腕が生えた人の原形をとどめない形へと、変貌を始めたからだ。
 それはもう、明らかにまともな人間ではなかった。元は人格的な意味で、今は生物的な意味において。

「そんな、これじゃあまるで……《魔の眷属けんぞく》じゃねぇか!!」

 労働者たちから、恐怖の叫びが上がった。それは、有り得ない出来事であった。
 《魔の眷属》、それはこの世界で最も恐れられる、生きとし生けるものの大敵。そんなものが何故船長だったものから生えているのか。疑問は、恐怖によって押し流されていった。

「って、どうやって逃げるんだよ!?」

 部屋の入り口には、船長だったものが立ちはだかっている。さらに背後からは船員だったものたちが現れ、ギチギチと異様な音を立てながら合体を始め、膨れ上がりつつあった。これを正面から突破するのは、ひどく困難だ。

 しかし逃げるにはあれを越えなければならない。そもそも空を進む飛空艇の中、逃げる先など存在しないが、それは今心配するところではなかった。
 労働者たちが部屋の端に追いつめられる中、ロバートが動く。

「いつまでも黙って不運ハードラツクに従うと思うなよ! くらいやがれ!!」

 周りにあった食器や瓶などを手あたり次第に投げつける。僅かな抵抗だが、何もしないよりましだ。すぐに労働者たちも加勢し、次々に物を投げつけ始めた。
 もちろんその程度、《魔の眷属》にとっては大した痛痒にもならないが、煩わしげに触腕を振って食器を弾く。その隙にロバートとヨーゼフは近くの机を横に倒すと、皆で集まって机の脚を持って《魔の眷属》へと突撃した。

 発声器官が壊れているのだろう、《魔の眷属》は奇怪な唸り声と共に触腕を振るった。破砕音とともに、机が真っ二つになる。もろい家具は役には立たなそうだ。

「くそ、ダメか!」
「ヤバい、逃げ……」

 それに止まらず、触腕はさらに裏側へと回り、机を支えていた労働者の一人に巻き付いた。

「うわ、やめ……ぎっ、ぐばっ」

 《魔の眷属》は、人としての擬態を捨て去ったことで本性を露わにし始めていた。巻き付いた触腕は、絞め殺すなどと生易しいことはしない。労働者の口から悲鳴が漏れたのも一瞬のこと、直後に彼は引きちぎられ両断された。

 数を頼みに勢いのあった労働者たちは、仲間の一人が血をまき散らしながら吹っ飛んだことにより一気に戦意を失っていた。
 そもそもこの船に乗っているのは食い詰め者ばかりである。戦う力がなく、冒険者という道すら選べなかったからこそ、このような仕事をせざるを得なかった連中だ。何人いたところで《魔の眷属》の前では無力であった。

「ひぃっ。うぁっ。し、死にたくねぇ!」

 一人が泣き叫び、走り出したことにより集団は完全に瓦解していた。多数の触腕を振り回して迫る《魔の眷属》から逃れたい一心で、ばらばらと動き出す。
 《魔の眷属》には、容赦というものがなかった。何本もの触腕を生やし、やたらめったらと振り回している。硬く、それでいてよくしなる触腕に打ち据えられては、人間など枯れ木のように折れちぎれてゆく。食堂は舞い散る血しぶきに染まり、すっかりとその装いを変えていた。
 逃げ惑う者たちの中には、ロバートとヨーゼフの姿もある。

「このままじゃ、すぐに俺たちも挽き肉の仲間入りだぜ!」
「落ち着け。ほら、あの化け物は少しずつ移動している。そろそろ出口が開くぞ」

 労働者たちが部屋の隅へと追いやられているため、《魔の眷属》はだんだんと部屋の中へと踏み入りつつあった。すると、部屋からの出口が開くことになる。
 二人は頷きあうと、出入り口目がけて走り出した。

「待て! お前らだけ逃げようったって、そうはいかんぞ!」
「こんな場所に居られるかよぉ!」

 彼らに続いて、労働者たちが我先に出入り口へと殺到した。《魔の眷属》が背後から襲い掛かってくるものの、労働者たちは誰かが襲われている隙に、横をすり抜けて逃げ延びる。背後からはひっきりなしに悲鳴が響き、すぐに途絶えていた。

 部屋の中に動くものがいなくなった後、《魔の眷属》は血まみれの触腕を広げてゆく。自らが引きちぎった死体をつかみ取り、ゆっくりと巻き込んでゆくのだった。



「……追ってはこないようだ。一体何がどうなってやがるんだ。あの《魔の眷属》はどこから入り込んできたんだ!?」
「わからねぇよ。ここは空の上だ、やっぱ飛んできたんじゃないか」

 ロバートとヨーゼフは、船の通路で息を切らしていた。彼らを追ってきた労働者たちは散り散りに逃げ隠れ、どこかで息をひそめている。
 惨劇の現場から離れ、通路には静けさが満ちていた。

「ああもう、そんなことはどうでもいい。とにかく、逃げないと」
「どこへだよ。そんな広い船じゃない」

 息を整えながら、ロバートが睨む。そうだ、ここは空のど真ん中を進む飛空艇の中なのだ。逃げるにしても限界がある。しかし、このまま通路にいるなどというのも論外だ。《魔の眷属》が移動を始めれば、一発で見つかってしまうだろう。

「仕方ねぇ、とりあえずそこだ。部屋の中に隠れるぞ」

 二人はたまたま空いていた部屋へと滑り込む。船員のための部屋だったようで、あちこちに私物が散乱していた。慎重に扉を閉め、部屋の奥に潜む。

「……くそう。俺たちが何をしたっていうんだ。せっかく稼ぎにありついたとこじゃねぇかよ」

 ヨーゼフは、押し殺した声で恨み言を呟き続けている。ロバートもほぼ同感であるが、さらに気が滅入るのは勘弁してほしかった。

「ちくしょう、こんなところが俺の最期かよ」
「まだ死ぬと決まったわけじゃない」
「バカ言いやがれ。船は狭い、このままだといずれ追い詰められて、みんなしてアレの餌んなるだけだ」
「そんなことはわかってる。だから、何とかする方法を考えろよ」

 ロバートは若干うんざりとした気分で、静かに動き出した。ぎょっとして固まるヨーゼフを残して、かすかに扉を開けて周囲の様子をうかがう。通路には、静寂と暗闇だけが広がっていた。

「お、おい! 正気かよ、見つかったらどうするんだ」
「このままずっと隠れていられるわけがないし、黙って死ぬつもりもない」
「そりゃ俺だってどうにかしたいけどよ。だからって、どんな手があるんだよ!?」

 這い寄ってきたヨーゼフを振り返り、彼は少し考えてから答えた。

「わからないが……せめて何か、武器になりそうなものを探そう」
「……この船で武器になるようなモノっていやぁ、採掘道具くらいか」

 岩塊での作業に使ったツルハシを思い出す。人間を相手にするのならば殺傷能力はある。だが《魔の眷属》を相手に通じるとは思えなかった。

「それでも、ないよりはましだ。取りに行くぞ」

 抗ったところで、二人して死体の仲間入りをするのは目に見えている。しかし戦ってから死ぬのは、黙って追い詰められて死ぬよりもずいぶんと上等に思えた。
 極限の状況において、彼の思考も狂いだしているのかもしれない。

「…………!!」

 そうして部屋を出ようとしたところで、二人は通路の奥から異様な音が聞こえてくるのに気付いた。
 慌てて部屋に戻り、息を殺す。

 そのうちに音はどんどんと明瞭さを増していった。ずるり、ずるりと湿った何かが床を這っている。びちゃびちゃと、液体が跳ねているのがわかった。
 果たして今、《魔の眷属》はどのような姿になっているのだろう。死への恐怖と隣り合わせに、恐ろしい好奇心が湧く。

 ずるり、ずるりと重い身体を引きずって、化け物が過ぎ去ってゆく。そこでついに、彼らは好奇心に負けた。音を立てないよう、慎重に扉を開く。
 隙間から覗いた先には、闇がある。その中に、明らかに異様な存在が、あった。

 ――《魔の眷属》、かつては船長だったもの。
 それはもはや、何ともつかぬ異形の怪物となり果てていた。船長に船員、労働者たち。誰もかれもが区別なく混ぜ合わされて団子のようになっている。それぞれ人の姿はとどめておらず、あちこちからてんでバラバラに手足が生えていた。
 それらはひとつとして本来の機能を為しておらず、代わりに触腕が蠢き、床を這い進む。それが通り過ぎた後には、血の混じった汚らしい跡が長く残っていた。

「……! …………!!」

 二人は口元を押さえ、声が漏れないように歯を食いしばる。
 人理を冒涜し、生命を侮辱する汚濁の顕現。《魔の眷属》、それはあらゆる生命に仇なす大敵である。彼らは、その事実を心底から確信していた。

 やがて《魔の眷属》は通路の奥へと消えていった。
 二人は静かに部屋から出て、床に残った湿った感触に顔をしかめる。

「もう、あんな化け物は手に負えない」
「とにかく、今のうちに工具を取りに行くぞ。どうせなら頭のひとつも潰してから死んでやる」

 二人は《魔の眷属》の向かった先とは逆方向に進む。
 時折、遠くから悲鳴が聞こえてきた。逃げた労働者が見つかったのだろう。それ以外は、遠くから魔導器の奏でる低い振動が伝わってくるのみだ。

「そういえば……この船は、止まらないのか」

 操るものがいなくなっても、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は進み続ける。
 動力炉である大型魔導器はせっせと力を生み出し、推進器は稼働を続けていた。たとえ、この船に乗る人間が殺されつくしても、船は進み続けることだろう。

「ということは、このまま……島へと帰るのか?」
「はぁ〜、帰りてぇなぁ。命さえ無事なら、このまま借金が残ったってかまいやしねぇよ、もう!」

 ヨーゼフが大げさに嘆いて見せるが、ロバートの危惧するところは少々異なっている。

「いや、そうじゃなくてだ。このまま……あの化け物を連れたまま、帰るのか?」

 二人は、思わず顔を見合わせて足を止めた。

「それは……ちと、まずくねぇか?」

 今夜はあまりにも恐ろしいことが続いて、もう感情なんて麻痺してしまったと思っていた。だが、そうであるならば。この腹の底から湧き上がる強い焦燥感は、なんなのだろう。
 二人ともロクでもない暮らしをしてきた人種だ。まっとうな正義感など持ち合わせず、島への愛着だって欠片もない。
 だが、アレを野放しにするのはあってはならないことだった。

「し、島には冒険者がいる。あいつらならば、《魔の眷属》くらい……」
「船が貧民街についてみろ。そこらじゅうのやつを喰い散らかして、無制限にでかくなるぞ。冒険者だ? あいつらがわざわざ貧民を守るものかよ。のんびりと依頼を受けてやってくるころには、街には人がいなくなってるさ」
「だからって! 俺たちなんぞに、いったいどうしろっていうんだよ……」

 小声で言い合いながら工具の収められている区画へ向かっていた二人だったが、道行く先から物音が聞こえてきて立ち止まった。

「ゲッゲッゲッ、グゲゲッ」

 二人は、せめてと拳を固める。《魔の眷属》は逆方向に向かったはずだ。もしかしたら、あの《魔の眷属》は身体を分けられるのかもしれない。船長を操っていた時のように。

 そうして二人が警戒していると、ぼんやりと人影が見えてきた。
 骨と皮だけでできたような、枯れ木のごとき姿。岩爺である。

「……なんだ、爺さんか。しぶとく生きてたんだな」

 安堵の吐息を漏らして構えを解く。しかし二人はすぐに、拳を構えなおすことになる。

 目は虚ろで、口からは涎が垂れ流れている。岩爺の様子は、明らかに常軌を逸していた。とはいえ、この人物に関してはもとから正気があったかどうか疑わしいところだが。

「ぐふふ……岩じゃ、岩じゃ……。実に美味なるぞ。ぐげ、ぎぎぎぎぎぃっ!!」

 岩爺の身体が、人間には不可能な奇怪な角度に折れ曲がる。口は裂け広がり、内部から触腕が這い出てきた。

「ちくしょうが! すでに喰われてたのかよ!」

 二人は自棄のごとく走り出す。触腕が姿を現しきる前に、勢いをつけて殴り掛かった。相手は枯れ木のごとき老人だ。躊躇なく振りぬかれた拳を受けて、首が不自然な角度に折れ曲がる。
 これはもはや人ではない。二人は容赦なく攻撃を加えた。蹴り飛ばし、踏みつけと滅多打ちだ。

 気づけば、そこには老人だったものが転がっているだけだった。《魔の眷属》としての触腕は現れない。

「身体を完全に取り込まれないと、《魔の眷属》にはならないのか」
「つまり先手必勝ってか」

 呆気ないものだったが、小さくとも勝利は勝利だ。二人はおおいに意気をあげ、先に進もうとして。そんな小さな喜びは、直後に吹き飛んでいった。

 遠くから、重く湿った存在が蠢く、おぞましい音がこだましてくる。《魔の眷属》の本体が、動き出したのだ。岩爺と戦った時の音を聞きつけたのだろう、時折混ざる破砕音は、通路が壊れた音らしかった。

「おいでなすったぜぇ……」
「武器だ、急ぐぞ!」

 もたもたとはしていられない。二人は船倉へと駆け込んだ。
 油灯を灯せば、雑然と並べられた多数の道具類が目に入る。主に岩塊を掘り起こし調査するための道具類だ。

「なんでもいい、できるだけ凶悪な奴を……」

 とにかく手に取り、物色する。できるならば、伝説の《神剣》のひとつでも欲しいところであるが、贅沢は言っていられない。主な武器は尖ったツルハシに、重いスコップだ。人間相手ならば頼れる道具たちだが、《魔の眷属》を相手取るにはいかにも心もとない。

「……いいや。おい見ろよ、すげぇモンがあったぜ」

 奥に置かれていた箱を探っていたヨーゼフが、突如として歓声を上げた。ロバートも箱の中を覗き込み、すぐに凶悪な笑みを浮かべる。

「これだ。こいつがありゃあ、《魔の眷属》にだって一泡吹かせてやれる」
「ようし。どうせならあるだけもらっていこうぜ。もう使い道なんてないだろうしな」

 意気揚々と準備を整え、二人は魔物と対峙する。
 《魔の眷属》の姿は、先ほど見たときよりも大きさを増している気がした。逃げ出した労働者たちを取り込んだのだろう。この船に、ロバートとヨーゼフ以外の生き残りがいるのだろうか。微かに脳裏をよぎった疑問を、首を振って追い出す。
 もはや、そんなことは関係がないのだ。
 その時、ロバートは《魔の眷属》の材料のひとつに見覚えのある顔を見つけて、ただでさえひどい気分をより一層下向かせた。

「……ありゃあ、航空士じゃないか。船を操れる奴が、いなくなったぞ」
「はぁ、いよいよ帰る当てがなくなったかよ。このままクソ化け物に喰われておしまい。嫌だねぇ。せめて、地面の上で死にてぇぜ」

 少なくとも、船員はほぼいなくなったようだ。万が一この《魔の眷属》を倒せたとして――そんな幸運がありえるのかは、横に置く――船を操って島に帰ることができない。
 彼らには、本当に死ぬ以外の選択肢がなくなったのだ。

「くくっ。はははははっ! こりゃあいい。ずいぶんといい」

 ロバートは心底から笑っていた。不運ハードラツクもここまで来るといっそ清々しいものだ。

「どうしたって死ぬんだろうよ。だがなぁ、俺たちだけってのも不公平だ。《魔の眷属》さんよ、お前も一緒に死んでもらうぜ」
「そりゃぶっ殺してやりたいけどよ、どうやるんだよ」

 ツルハシを構えたヨーゼフが、触腕を牽制しながら聞いてくる。

「いいや、いい方法を思いついた。いける、絶対にこいつも殺せる方法がある!」

 ロバートは急いでソレを取り出す。船倉の奥で見つけたもの――発破用の爆薬を手に、ぎらつく笑顔で叫んだ。

「こいつで、動力炉を吹っ飛ばせばいい!!」
「んなぁ!? 確かに、なんもかんも粉微塵だな」

 飛空艇の動力に使われる大型魔導器は非常に強力である反面、ある種の不安定さがあることはよく知られたことだ。ごくたまに、動力炉の事故により飛空艇が沈んだなどという話も聞こえてくる。

「吹っ飛ばしちまおうぜ、全部。どうせクソみたいに死ぬなら、とことんド派手にだ!!」
「くくくく、はははは! ようし、乗ったぜ」

 二人してたまらず破顔した。どう考えても、自暴自棄もいいところだ。だがしかし、そこにはある種の魅力があった。このまま抗うことなく餌になるか、《魔の眷属》に一矢報いて笑いながら死ぬか。
 二人の眼に、峻烈な戦いの炎がともる。
 彼らは、笑いながら死ぬことを選んだ。どんづまりまでしくじりの詰まった、惨めな人生だった。だが、最後の最後にひとかけらでも誇れるものを掴めるように。
 《魔の眷属》が、汚らしい声で咆えた。その後ろには、勝利へとつながる道がある。

「どちらか一人がたどり着けばいい。どちらでもやることは同じ、ドカンだ」
「どっちが残っても恨みっこなしだな」
「いいさ。どうせ死ぬのが少し、早くなるだけだ」

 《魔の眷属》は、奇声を上げながら触腕を振り回す。強烈な力の暴威が、壁や床を砕き、二人を挽き肉に変えるべく殺到した。

「人間舐めんなよ、化け物が。俺の不運ハードラツクに付き合ってもらうぜ」

 ロバートは爆薬を取り出すと、導火線のほぼ根元に火をつける。《魔の眷属》に向けて投げつけるや、すぐさま床に伏せた。
 迫りくる触腕の槍衾やりぶすまと、爆薬がすれ違う。直後、通路を猛烈な衝撃が荒れ狂った。《魔の眷属》の触腕を引きちぎり、船の通路を破砕する。壁が割れ、周りの区画が露わとなった。

「いま……だ!」

 爆風をやり過ごし、二人は猛然と走り出した。《魔の眷属》は、まだ衝撃から立ち直れていない。体液をまき散らしながら悶絶する《魔の眷属》を置き去りに、機関室へと一直線に進もうとして。

 悍ましい叫び声が上がる。元の形を失った誰かの口が開き、濁った叫びをあげたのだ。この世界で人類の大敵と恐れられる《魔の眷属》は、爆薬だけで倒せるほどに生易しい存在ではない。
 再び、触腕が湧き立った。必死に走る二人へと向けて急速に迫り。

 ヨーゼフが、ちらりと後ろを振り返った。追いすがる触腕を目にした彼は、小さく口元に笑みを浮かべ。

「……ロバート、すまねぇな。あと、頼むわ」

 足を、止めた。
 振り返り、逆に触腕に向かって突進する。火をおこし小脇に抱えた爆薬へと突きさすと、直後に触腕によって串刺しにされた。

「あがっ……ごっ。うぶ、ぐぐ……」

 触腕に貫かれたまま、彼は笑おうとして、代わりに血の塊を吐き出した。直後、爆薬に火が届いた。
 ヨーゼフの身体ともども、触腕が粉々にちぎれ飛ぶ。《魔の眷属》が上げた苦痛の悲鳴は、爆風によって遮られた。
 ロバートも爆風のあおりを受け、通路を吹っ飛ばされる。したたかに床に打ち付けられ、そのまましばらく転がってようやく止まった。

「…………ぐっ。ちく、しょう。もう少しだぞ……」

 ふらふらとしながら起き上がり、彼は前に進む。あらゆるものを犠牲にして掴んだこのチャンスを逃すわけにはいかない。
 彼は、体当たりの格好のまま機関室へと飛び込んだ。

「はは。あったぜ……」

 機関室の中央には、動力炉である大型魔導器が騒々しい駆動音を奏でていた。この《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》の推力を支える、強力な魔導器だ。
 ロバートは魔導器というものの正しい扱い方などてんで知らない。だがどれほど知識がなかろうと、今は関係なかった。
 残るありったけの爆薬を押し付け、導火線に火をつける。

「ツイてない俺たちだったがよ、やればできるじゃないか。なぁ?」

 満足げに呟いて、彼はそのまま踵を返した。導火線が燃える心地よい音を聞きながら、機関室を出る。
 通路の奥から、《魔の眷属》が迫ってきていた。何度も爆発を喰らっていながら、まったく衰える様子がない。おそらく、喰らった死体たちを消費しただけなのだろう。激昂する《魔の眷属》に対し、彼に抗う手段はない。もうすぐ、彼も死ぬだろう。だが――。

 ロバートは両手を広げて歓迎を示す。

「ようこそあの世までの直行便へ。まもなく出発進行、死ぬほど揺れますがお気をつけてくたばりやがれやクソ化け物め」

 瞬間、爆薬が炸裂した。

 爆風をまともに浴びたロバートが吹っ飛ぶ。彼めがけて触腕が伸び、取り込もうと巻き付いた。その時、爆発によって大型魔導器が崩壊した。内部に蓄えられた魔力が全て放出され、エネルギーへと変わる。
 発破用の爆薬など比較にならない、壮絶な大爆発が巻き起こった。

 衝撃が通路を駆け抜け、炎が壁と床を嘗め回す。爆発は《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》の外装を突き抜け、盛大な炎を噴き上げた。
 爆風は容赦なく《魔の眷属》を飲み込み、吹き飛ばす。さしもの怪物も、全身がちぎれ飛んでいった。

 果たして、どのような運命のいたずらか。ロバートの身体は、船尾まで吹き飛ばされていた。後部甲板をごろごろと転がり、縁でようやく止まる。

「……ああ! うおお、がっ!」

 彼はまだ、生きている。皮肉なことに、《魔の眷属》の身体が彼を守る盾になったのだ。

「こ、これは、ツイてるとは……いえない、な」

 痛みに唸りながら顔を上げると、そこには地獄絵図が広がっていた。
 炎が渦巻いている。船体の各所で小規模な爆発が連続し、ばらばらと構造材が剥がれ落ちていった。いずれ崩壊は全体に回り、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》は墜落するだろう。

「はは……ざまぁ見ろ。いくら《魔の眷属》だろうと、落ちてしまやぁおんなじよ」

 死ぬとわかっていても、迫りくる炎は恐怖だ。ロバートは甲板を這い進み、手すりに掴まって立ち上がる。
 そこで、彼はとあることに気が付いた。後部甲板には巻き上げ機が並び、そこから縄が伸びているということに。
 彼は、ゆっくりと縄の先を目で追った。その先にあるのは、浮遊する巨大な岩塊。あれは、船の動力とは無関係に空に浮かんでいる。

「……そう、か。その手が!!」

 瞬間、ロバートの脳髄を天啓が駆け抜けた。
 痛む身体を押して、彼はナイフを取り出した。縄へとしがみつくと、端から切り落としてゆく。元々、爆発の衝撃によって半数くらいはちぎれ飛んでいる。残る本数は多くない。

「はぁ。はぁ……。もうすぐ、だ」

 最後に残る一本へと向けて、よろよろと進む。すると、甲板への出口が激しく砕け散った。ぎょっとして振り向いた彼の視界に、蠢く触腕が映る。
 崩れた出口を弾き飛ばしながら、《魔の眷属》が姿を現した。
 魔導器の爆発をまともに浴びて全身が焼けただれ、突き出た人間の顔が苦痛を悲鳴に変えている。見るだに悍ましい、化け物の成れの果てであった。

「はは。そうだよなぁ、そう簡単にくたばりやしねぇよなぁ」

 憎悪に満ちた視線が、ロバートを捉えた。焼け残った触腕が激しく蠢き、彼のもとへと殺到する。

「だが、遅かったな。あばよ、《魔の眷属》」

 触腕が彼の元へと到達する前に、最後の一本を掴み、根元を一気に斬り裂いていた。
 そのまま、彼は甲板から身を躍らせる。間一髪、触腕は間に合わず、悔しげにのたうち回っていた。

 縄を掴んだままの彼は、空中に大きく円弧を描きながら船から急速に離れていった。縄のつながる先は岩塊、彼の行き先もそこだ。
 重力に引かれるまま進んだ彼は、岩塊へと強かに打ち付けられた。ただでさえボロボロの身体が悲鳴を上げるが、なんとか出っ張りにたどり着くことに成功する。

 一方、船に残されたままの《魔の眷属》は悔しげに咆えていた。届かぬ距離から触腕を振り回し、ただ殺意を叫びまわる。

 その背後では、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》がついに最期の時を迎えていた。炎が船体を嘗め尽くし、崩壊が限界に達する。構造材がバラバラと剥がれ落ち、動力炉に続いて推進器が爆発した。
 炎はついに、甲板で蠢く《魔の眷属》をも飲み込んでいた。そうしてついに、竜骨が焼け落ちる。

 《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》が、真っ二つに折れた。同時に起こった爆発が、止めを刺す。

 一人、岩塊に渡ったロバートは、地上へと落下してゆく燃え盛る破片たちを、呆然と眺めていたのだった。



 ロバートが岩塊の上へとたどり着いたのは、夜明けを迎える頃のことだった。へとへとの身体を投げ出し、首だけを巡らせる。
 周囲には、漂う雲以外に何も見えない。当然、《栄光を掴む手ハンド・オブ・グローリイ号》の姿はそこにはなかった。

「はぁ。俺はやったぜ。だが、ここには何もないな」

 岩塊には、生きるために必要なものが何もない。ただ引っ張るだけだったために、食料すら持ち込まれていないのだ。そして助けが来る当てもない。岩とともに漂流しながら、死を待つばかりであった。

「最後の最後まで、ツイてねぇなぁ。こんなことなら、船と一緒に吹っ飛んでおけばよかったか」

 低い笑いを漏らすも、言葉ほどに悪い気分ではない。

「しまらねぇ……まぁ、だが」

 彼はゆっくりと立ち上がり、岩塊を踏みしめた。

「ここも大地の上には、違いない」

 《アーケイン=ガーデン》に暮らす者たちは、地上に落下することを忌避する。彼は、最後の最後に微かな希望を、叶えたのである。


 ――数週間後。
 《アーケイン=ガーデン》の周辺を警護する飛空艇が、近辺を漂う不審な岩塊を発見する。
 魔導鉱の影響により浮遊すると思われる岩塊には、一人の男の死体があった。死体のそばには、最後の力を振り絞ったのであろう、とある事件の顛末が刻まれていた。
 それを調査した船員は、ひとつ奇妙な点があると言っていた。

 おそらくは餓死したのであろう死体は、なぜかひどく安らかな微笑みを浮かべていたのだ、と――。

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