ガーデンプロジェクト

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窓際課長は今日も憂鬱

著:気がつけば毛玉

 プロローグ

 遺物と呼ばれるものがある。
 かつて栄華を極めた魔法皇国の遺産。
 おとぎ話の時代より、形を残す魔法の品々。
 何百年、何千年と時を経たそれらは、骨董こつとう品と言い換えても差し支えがない代物だ。事実、遺物の中には、経年劣化で朽ち果てたものもある。
 それでもなお、人々が遺物を求め続けるわけは――。
 それが他に得がたい実用品となるからだ。
 《魔導器》を備えた武具を、たやすく凌駕りようがする性能の剣。
 朽ちない金属で構成され、自由自在に空を行く飛空艇。
 持ち主を守る魔法の指輪に、遠くを映す不思議な鏡。こじ開けられない強固な錠に、霧を封じ込めた真鍮しんちゆうの小箱。
 どれもこれもが、今の世にはないものだ。錬金術の研究が盛んな《空の時代》においてさえ、遺物は再現出来ないものが多い。それもそのはず、《空の時代》を支える技術は、すべて《いにしえの時代》に生み出されたのだから。
 あの時代、魔法皇国はすべてが極まっていた。
 魔力というエネルギーを最大限に活用し、森羅万象、すべてを支配しかけていた。
 今の研究者たちがしていることは、その再現に過ぎない。どうにかあの栄光を取り戻そうと、足りない物資、足りない資料をかき集め、這うような遅さで《いにしえの時代》を目指している。
 それほどまでに《いにしえの時代》は輝かしかった。
 過去より伝わる遺物の数々は、人々を惹きつけてやまなかった。
 僕もそうだ。この僕も、一目見ただけでその魅力に吸い寄せられた。
「とうさん! 大きくなったら、ぼくもいぶつをあつめたい!」
 あの日、冒険者だった父に見せてもらった簡素な指輪。
 思うがままに物を浮かせる小さな遺物に、きっと僕は目を輝かせていた。
 そして、憧れや興奮をそのまま口にしたんだ。遺物を集めたい、遺物についてもっと知りたいと。その気持ちは大きくなるにつれてどんどんふくらんでいき、とても抑えておけなくなった。
 だから、自然と研究者を目指した。日がな一日遺物を調べ、社会に役立てる職業が最適だと思った。そのために猛勉強をしたし、どんな努力もいとわなかった。昼も夜もなく学び続け、目を悪くしても遺物について調べ続けた。
 その結果、研究者になれたとき、僕は泣いて喜んだ。これまでの努力が報われて、これからは輝かしい未来が待っているのだと確信出来た。
 これから先は、ずっと大好きな遺物を扱えると――。
 そう、きっとそうなると、思っていたのだけれど――。


 一章

 ガラクタ。ガラクタ。偽造遺物に、古びたコイン。
 ガラクタ。ガラクタ。型落ち品に、ただの鉄くず。
「おまけに壊れた《魔導器》か」
 どう見ても使い物にならないそれを、仕分けの箱にポイと放る。

 ガラクタ。ガラクタ。汚れた翼に、防具のかけら。
 ガラクタ。ガラクタ。店売り品に、ただの酒びん。
「今度はまさかの生ゴミか」
 泣きたくなるほどしおれた果実を、指でつまんでポイと捨てる。

 ガラクタ。ガラクタ。錆びた剣に、遺跡のタイル。
 ガラクタ。ガラクタ。古い玩具に、ただの糸巻き。
 ガラクタ。ガラクタ。ガラクタ。ガラクタ。
 ガラクタ。ガラクタ。ガラクタ。ガラクタ――。

「だああああああああっ!」
 思わず声を上げ、作業台に突っ伏してしまった。
 夕食後、かれこれ六時間はガラクタを漁っているんだ。それで遺物の一つも見つからなければ、声も出ようというものだ。
「おまけに、まだまだガラクタの山が……」
 伏せていた顔を上げると、正面に、机の脇に、部屋の奥にだってガラクタが見える。
 さすが、ゴミ捨て場と呼ばれる部屋だ。その名に恥じない有様に、今度は大きなため息が出た。
「はぁぁぁぁぁ」
 一つ大きく息を吐き、椅子の背もたれに倒れかかる。
 そのままぼんやりとしていると、なんだか、これまでの思い出が浮かんでくるようだった。
(あれからもう一年か)
 そう、早いものでもう一年だ。
 この僕、ウォルハルト・ウォーレンが試験に合格し、《遺物管理局》に配属されたのは、今日からちょうど一年前のこと。
 念願叶って、希望通りの職に就けた喜びは、今でも胸に残っている。
「どうだい、ウォルハルトくん。見事なものだろう?」
「うわぁ!」
 先輩に案内されて遺物保管庫に入った時は、こんな声も出したっけ。
 とにかく嬉しかった。あの素晴らしい遺物について、もっともっと知ることが出来ると、子どものように胸を弾ませていた。
「首席合格者の君には期待をしている。頑張ってくれたまえ」
「はいっ!」
 なんて、元気のいい返事もしたなあ。
 いや、返事だけじゃない。実際、僕はとても頑張った。はっきり言って、同期の誰よりも仕事に励んだ。
 きっちり結果も出したし、そのことで上司には褒められたし、社会貢献出来ているという喜びもあった。熱意は誰にも負けなかったし、知識もどんどん増えていったし、その分、実績も増していった。
 ただ、まあ、なんというか。
 やりすぎたというか、目立ちすぎたというか。
 気がついた時にはいらぬ恨みを買っていて、その翌日には、ポンと肩を叩かれた。
「あれは本当に、うかつだったなあ……」
 どうやら僕は、立ち回りが下手だったらしい。
 遺物研究に熱中するあまり、同僚への配慮が欠けていたようだ。
 エリート揃いの一課は村社会。良家の子息子女が集まるこの場所で、何の後ろ盾も持たない者が突出したらどうなるのか。
 今なら分かる。今だからこそ分かる。
 栄転という名の左遷を受けて、三課の課長となった、今の僕だからこそ――。
「はぁぁぁぁぁぁ」
 もう何度だってため息をつける。
 なぜならここは、悪名高き第三課。課とは名ばかりの窓際部署だからだ。
「同じ《遺物管理局》とは、とても思えない……」
 《遺物管理局》第三課。ここは要するに、ゴミの選別場だ。
 資源も物資も限られたこの時代、安易にものを捨てることは許されない。直せば使えるものは直して使い、まだ動くものなら壊れるまでは動かせる。
 ここにあるガラクタだってそうだ。ガラクタのように見えるものでも、ちゃんと調べなければ捨てられない。
 もしかすると、この中に遺物が交ざっているかもしれない。
 ひょっとすると、それはとても貴重で得難いものかもしれない。
 そうした理念のもと、三課職員は『宝探し』に励んでいるわけだけど――。
 これが面白いほど見つからない。びっくりするほど遺物がない。
 しょせん、三課は三課、ゴミ捨て場ということなのだろう。他の課から送られてくるガラクタは、どこまで行ってもガラクタだった。
(でも……)
 たまーに。極まれに。
 本当に遺物が紛れ込んでいることもある。
「むふふ♪」
 ポケットから取り出した指輪。飾り気がなく、みすぼらしくも思える指輪。
 パッと見ただけではそうと分からないかもしれないけれど――とんでもない!
 これこそが遺物だ。魔法皇国の大いなる遺産だ。
「ふむふむ、この印の特徴は前期型だな。途中で手を加えているから、中期型っぽくもある。そんなことをしたら燃費が落ちそうだけど……おお、上手いこと調整してるよ。なるほどなあ、ここをこうして、《増幅》の効果を高めて……」
 仕事を終わらせてから、と思っていたけれど、もう我慢出来なかった。
 先ほど見つけた小さな遺物を、細かなところまで解析していく。《いにしえの時代》に作られ、今なお残る叡智えいちの結晶を、存分にいじくり回していく。
 至福だ。まさに、至福の瞬間だ……!
「これがあるから、辞められないんだよなあ」
 ほうっと熱い息をはき、そっと指輪を棚に入れる。
 先ほどまでの暗い気持ちはどこへやら、今の僕には満足感しかない。
(我ながら、安上がりだとは思うけど)
 でもやっぱり、大好きな遺物に触れることは、とても嬉しいことだった。
「さーて、もう一頑張りするかな!」
 うん、と背筋を伸ばし、改めてガラクタの山と向かい合う。
 ほとんど報われない作業だけど、喜びがないこともない。そんな小さな希望を胸に、僕は再び、ガラクタの選別を開始した。

 ガラクタ。ガラクタ。古い絵本に、魔石のかけら。
 ガラクタ。ガラクタ。革の財布に、ただのパイプ。
 ガラクタ。ガラクタ。偽の真珠に、小さな十字架。
 ガラクタ。ガラクタ。槍の穂先に、遺物っぽいもの。

「……って、ええっ!?」
 ビクッ! と体が跳ね上がった。
 思わず、手にしていたものを二度見した。
「こ、これは、え? これは……!?」
 今、何気なく仕分けしようとしていた鏡。
 ただの卓上鏡のように見えるけど、そうじゃない。とてもそうとは思えない。
 全体的な構造。施された装飾。見た目の印象とは、ほんの少しだけ違う重さ。
 そのすべての情報が、僕に「手放すな」と告げている。もっとよく見て、よく調べて、答えを出せと言っている。
 なぜなら、これは、この鏡は――。
「遺物?」
 まさか、という思いが先に立った。
 次いで、そんなはずはという否定が湧いて出た。
 この三課で、一日に二度も遺物が見つかるなんてあり得ない。そんなことはこれまでになかったし、これから先もあるはずがない。
 しかし、見れば見るほど、この鏡が遺物に思える。何の変哲もない外見も、目立たせないための偽装に思えてしまう。
 そう疑いながら触っていると――なんと、背面が蓋のように外れてしまった。
「これって……!」
 鏡の裏側に描かれていたのは、見慣れない魔法陣だった。
 現存するものとは明らかに違う。記憶を探っても、類似するものは見当たらない。
「《眠りの鏡》? いや、それにしては印がおかしいな。《反射の鏡》でもなければ、《遠視の鏡》でもない」
 違う、違う、どれも違う。
 そんなものじゃない。そんなにちゃちなものじゃない。
 これは、これは本当に、本当にこれは――!
「遺物……!」
 しかも、図鑑にも載っていないようなものだった。
「う、嘘だろう? は、ははは! こんなことがあるなんて!」
 たまらず手を叩いて、喝采を上げてしまった。
「これがあるから、辞められないんだ!」
 そう言いながら、僕はこんなこと、思いもしていなかった。
 まさか、ゴミ捨て場の三課に、これほどのものがあるだなんて――。
「どんな仕事も、続けてみるものだなあ」
 心の底から、しみじみとそう思った。
 一月ひとつき前、ここに流されてきた時は、世の理不尽を嘆きもしたけれど。こんなご褒美があるのなら、雑多な仕事も頑張ってきた甲斐があった。
「さーて! 調べるぞーっ!」
 鏡にはクマを浮かべた目元が映ったけれど、こればかりは明日に回せない。
 調べられるだけ調べない限りは、横になっても眠れないだろう。
「《防護》、《透視》、《解析》!」
 虫眼鏡型の《魔導器》を取り出し、まずは《防護》で遺物を守る。
 続いて《透視》で内部構造を探り、《解析》で材質や魔導式をチェックする。
 これは特別なことじゃない。本格的な調査のための準備だ。だけど、僕はもう、それだけでううむと声をもらしてしまった。
(すごいな、見た目はただの鏡なのに)
 だからこそガラクタ扱いされていたのだろうけど、一皮むけば驚きの一言だった。
 まず材質。これは朽ちることのないものだ。魔法皇国の技術の高さを象徴する、何百年経とうと劣化しない各種素材。それらで出来たこの鏡は、たとえ千年先でも今の形を保っているだろう。
 次に魔法陣。これを構成する魔導式は、恐ろしく複雑に絡み合い、しかし、どこにも不備は見られない。つまりこれは、試作品ではなく完成品ということだ。何らかの目的をもって作られた、何らかの道具ということだ。
 では、その目的は何なのか?
 これは何のための道具なのか?
 現時点では分からない。偽装していることは分かるが、なぜそうしているのかまでは、今は推測するしかない。
(よからぬ目的でもあったのかな?)
 たとえば、のぞき込んだ者を眠らせるとか。
「いや、だから、《眠りの鏡》のたぐいじゃないんだ。だけど、偽装式の《魔導器》だと、《魔素燃料》の容量もたかが知れている。炎や光線を放ったり、逆にそれらを跳ね返したりなんてことも出来ないはずだ」
 ぶつぶつと漏れ出る思考はそのままに、細部まで鏡を調べてみる。
 他の道具も取り出して、出来る限りに未知なる遺物を調べ続ける。
 しかし、どうしても効果が分からない。何のための《魔導器》なのか、それさえまるで見えてこない。
「攻撃的なものじゃないみたいだけど」
 分かったことと言えば、武器ではないということだけ。機構や魔法陣の構成から、そこまでは推し測ることが出来る。
 だけど、その先が分からない。どうやっても分からない。
(分からない)
(分からない)
(分からない、分からない、分からない!)
 分からないことがたまらなく歯がゆく、どうしようもなく探究心を刺激する。
 じりじりと弱火であぶられるかのような焦燥感だ。その熱が頭の方まで伝わって、意識にぼんやりとかすみがかかっていく。
 すると、どうしたことだろう。そのもやの向こうから、なんだか、声が聞こえてくるようで――。

『少し、動かしてみればいいじゃないか?』
『そうすれば、何もかも明らかになるだろう?』
『ちょっと《魔素燃料》を注ぐだけでいいんだ』
『ただの実験だよ。怖がることはない』
『動かそう。この遺物のすべてを知ろう』
『明らかにしよう。これが何なのかを解き明かそう』

「うん、そうだ……その手があったな……」
 ちょっと待て。僕は何を言っているんだ?
 いや、それ以前に、僕は何を考えたんだ?
 あの声は僕の声だ。僕の心の中から出てきた声だ。
 でも、違う。そんなこと、僕が考えるはずがない。
 遺物に燃料を注ぎ、稼動状態にすることは許されない。それは完全に調査が終わり、その性質が明らかになってからだ。よく分からないものを、よく分からないままに動かしたら、何が起こるか予想もつかない。
 過去には《遺物管理局》の一棟が吹き飛んだと聞く。職員がどろどろに溶けてしまったこともあるらしい。
 それを防ぐための一線を、なぜ飛び越えようとしているのか。
 なんで僕は、解析用具から《魔素燃料》を取り出しているんだ!?
「簡単なことじゃないか……ちょっと動かせばいいんだ……」
 駄目だ! 駄目だ! 止めろ!
 理性ではそう思えるけれど、体がまるでついてこない。今、僕は、この遺物を動かしたくてたまらない!
「いいぞ……さあ、動け……!」
 止めたい気持ちを、動かしたい気持ちが上回る。
 膨らむ欲望が抑えられず、もう、自分で自分を制御出来ない。
 そして、勝手に、でも、望むがままに挿入されたスポイトが――《魔素燃料》を未知なる遺物に注ぎ込み――。
「お、おお、おおお……!」
 怪しい光を帯びる鏡面。
 そこに映る、歓喜の表情を浮かべた僕。
 それを見ているうちに、何もかもが明確になる爽快感と、沈んでいくような倦怠けんたい感が、僕の体を包み込んでいく。
(そうか、分かったぞ……)
(これは……この鏡は……)
(この、遺物は……)
 気持ちよくて、気持ち悪くて、目眩めまいがするような感覚の中。
 何かをつかみかけたところで、僕の意識はぷつりと途切れた。


 二章

「………………パイ!」
「…………センパイ!」
「もう朝ッスよ、センパイ!」
「うわっ!?」
 大きな声で揺り起こされて、その場で体が跳ね上がった。
「っとっと!」
 起きた弾みで倒れそうになり、慌てて机にしがみついた。
 どうやら、椅子に座ったまま寝ていたみたいだ。いつ寝たのか記憶にないけれど、外はすっかり明るいし、部屋には彼女の姿がある。
「おはよう、パム」
「ウィス♪」
 敬礼のような、そうでもないような、独特のポーズで挨拶をする少女。
 彼女の名前はパム・パタル。非正規雇用の職員で、僕の三つ年下の女の子だ。
 今日も早くに家を出て、市場いちばにでも寄ってきたのだろう。通勤バッグを壁にかけると、パムは果物片手に僕の方へと近づいてきた。
「また仕事場で寝落ちしたんスね?」
「ああ、うん」
「どーせ食事もしてないんスよね? ナナバ食べます? ナナバ」
「……もらうよ」
 とにかく元気なパムのペースに乗せられて、黄色い房の果実を受け取る。
 そして、皮をむいたそれをパクリとくわえながら、寝ぼけまなこで彼女を目で追った。
「ちょっと換気するッスよ~」
 そう広くはない三課の部屋を、パタパタと小走りに駆け回るパム。
 その軽快で爽やかな動きは、『くせっ毛栗毛のヒョロガリ眼鏡』と呼ばれる僕とは何もかもが対照的だ。
「ふんふふんふふ~ん♪」
 健康的に引き締まった体。それに相応しいスポーティーな服装。
 ベビーブロンドの短い髪は、くせこそあるが、とても柔らかそうだ。
 そんな、どこか子犬を思わせる彼女は、近所に住む顔馴染みでもある。通った学校も同じだったため、今でも僕は『センパイ』などと呼ばれているが――まあ、言ってしまえばその程度の繋がりだ。ご近所さんとはいえ、特にこれといった関係じゃなかった。
「みんな、おはよー」
 続いて現れたのは、恰幅のよい中年女性だった。
 全体的にふくよかで、ちりちりの黒髪が特徴的な中年女性。研究者というよりは市場のおばちゃんといった見た目の彼女も、三課の非正規職員だ。
「あら、課長さん! またここに泊まったの?」
「ああ、はい」
「あら~、ダメじゃない。体壊すわよ? ねえ、パムちゃん?」
「ウィス!」
 からからと笑う彼女は、元冒険者という肩書きがある――らしい。昔は名の知れた女傑だったそうだけど、素人目にはとてもそうは見えない。それこそ、下町を歩けばいくらでも見つかりそうなおばちゃんで――。
「はい、はい、おはようございます」
 そうそう、見た目と経歴の違いと言えば、この人もなかなかのものだ。
「じいちゃん、おはようッス!」
「はあ、今日もいい日和で」
 杖をつき、よちよちと部屋に入ってきた小柄な老人。
 つるりとした禿頭とくとうを撫でながら、ぺこりと頭を下げる彼は、なんと国家免許を持つ魔導技師だ。なんでも、若い頃は《アーケイン=ガーデン》の内部修理も受け持っていたとか。それが本当なら一級の人材だけど、寄る年波には勝てなかったのか、今はいつも日向ひなたでぷるぷるしている。
「じいちゃん、今日は朝ご飯食べたッスか?」
「ええ、ええ、昨日は早くにとこに入りました」
「あははっ、やーだ、じいさん! ボケるのは早いよ!」
 パム、おばちゃん、じいさん。
 この三人が自分の席に腰を下ろしたところで、始業を告げる鐘が鳴った。
「よーし、それじゃ始めようかね!」
「ウィス! やるッス!」
「道具の準備も、はい、出来とりますので」
 パム、おばちゃん、じいさん。
 この三人は、それが当たり前のように、自分の仕事に取りかかっている。
 他に出勤してくる者はいない。誰かの遅刻を心配している者もいない。
 つまりは、まあ、そういうことだ。
 左遷を受けた若造に、非正規雇用のバイトが三人。他に職員はいない。ここにいる面々が、《遺物管理局》第三課のすべてだ!

「…………………………」

 あまりにもあんまりな現状に、くらくらと目眩がするようだった。
 それを栄養失調と勘違いしたのか、優しい部下が新しいナナバを持ってくる。
「センパイ、ナナバッス! ナナバは栄養満点ッス!」
「……もらうよ」
 こんなやり取りにもすっかり慣れてしまった自分が虚しく、僕はただ、ナナバをもごもごと咀嚼そしやくするのだった。
(しかし、昨日は参ったな)
 甘いナナバに癒されながら、僕は昨夜のことを思い出していた。
(見たこともない遺物だったけど、結局、《眠りの鏡》だったなんて)
 のぞき込んだものを眠りに誘う魔法の鏡。遺物であることには間違いないけれど、そう珍しくもない《眠りの鏡》。それを起動させたから、僕はあっという間に眠ってしまったのだろう。
「やっぱりそういうオチか……はぁ……」
 期待していた分、落胆も大きい。
 しょせん三課はゴミ捨て場。世紀の大発見など、望むべくもないということだ。
「センパイ、どうしたんスか?」
「うん?」
「なんか、ため息ついてましたけど」
「ああ」
 ぽつりと呟き、そっと吐き出したつもりが、しっかり聞かれていたようだ。
 耳聡みみざとい部下に続き、おばちゃんやじいさんもこちらに目を向けてくる。
「いや、昨日の夜に遺物を見つけたんだよ。それも二つも」
「すごいじゃないッスか!」
「しかも片方は図鑑に載ってないものだった」
「へえ! さすが課長さんだねぇ!」
「でも、実はそれが、ただの勘違いだったみたいで……」
「え?」
「新発見と思ったら、ありふれた《眠りの鏡》で……」
「あ~……」
 一通り事情を説明していくと、尊敬の眼差しが、憐れみの目に変わっていった。
 うう、辛い。遺物研究者にとって、このパターンが一番辛い。新発見だとぬか喜びしたものが、実は既存のものでしたなんて――自分は馬鹿です、勉強不足ですと言ってるようなものだ。
「いや、でも、見たことない式が使われていたんだよ!」
「ほほう、それは興味深いですなあ」
「でしょう!?」
 元魔導技師のじいさんが、ここぞとばかりに食いついてきた。
 そうそう、そうなんだよ。たとえ既存の遺物でも、見たこともない素材や魔導式が使われていたら、それだけで貴重な研究対象になる。
「ひょっとしたら、《睡眠》以外にも効果があるかもしれないねえ」
「そうなんです! 僕もそのことについて考えていて!」
「いいねえ、夢が膨らむねえ」
 元冒険者のおばちゃんも話が早い。
 冒険者用の装備の中には、複数の機能を持つものもある。僕が使っている虫眼鏡だって、あれ一つで色々出来る優れものだ。そう考えると、あの奇妙な鏡だって、色々出来てもおかしくはない。
「僕としては遠隔操作用って線も捨てがたくて!」
「鏡というのが、ミソかもしれませんなあ」
「案外、家庭用の品かもしれないよ?」
 腐っても《遺物管理局》、遺物のことになると話が盛り上がり、僕らは自然と輪になった。そして、ああでもない、こうでもないと自分の考えを述べていると――。
 なぜか不思議そうな顔をしたパムが、ちょんちょんと肩をつついてきた。
「センパイ、センパイ」
「なんだ?」
「その鏡っていうのは、どこにあるんスか?」
「え?」
 おかしなことを言う子だ。
 どこも何も、昨日のままなら、作業台の上に――。
「……ないっ!?」
 ない。ない。どこにもない!
 昨夜、確かにあったはずの鏡が、忽然こつぜんと消え失せてしまっている!
「いや! いやいや、待ってくれよ! あるはずなんだ……あったんだ!」
「ないですなあ」
「誰か見なかったか!?」
「いや、見なかったッスけど……」
「机の下にも、ないみたいだねえ?」
「そんな!」
 まさか足が生えて逃げ出した、なんてことはあるまい。でも、警備厳重な《遺物管理局》に泥棒が入ったとも思えない。
 常識的に考えれば、局内の誰かが動かしたんだろうけど――。
「………………あ」
 今、ピンと閃いた。犯人が分かってしまった。
 局内の犯行。そして、三課から遺物がなくなったとなると、
「他の課が持っていったな」
 残念なことに、他の答えは見つからなかった。
「ええーっ!? またッスかぁーっ!?」
「なんだい、また上の連中の仕業かい?」
「気が滅入りますなあ」
 情けない声を上げ、作業台に突っ伏す三課の職員たち。
 実はこういった事件は、今回が初めてじゃない。三課が管理する遺物が、一課や二課に『徴収』されたことは何度かあった。
「やられたなあ……」
 僕にとっての遺物とは、興味深い研究の対象だ。だけど一課や二課の人にとっては、どうやら出世の道具らしい。
 みんながみんな、そうとは言わないけれど、一部、そうした人がいるのは事実だ。
 何しろ僕自身、そんなやからうとまれて、窓際部署へと飛ばされたのだから。
「まあ、一つ残っただけでも良しとしよう」
「え? 全部取られてないんスか?」
「ああ。ほら、隠しておいたんだ」
「おお~っ!」
 職場の理不尽にも慣れたもので、僕は隠し棚から指輪を取り出した。
「ただの《増幅》の指輪だけどね。ちゃんと修理して、保管庫に送ろう」
 元技師のじいさんに指輪を渡し、細部の修理を彼に任せる。
 僕は今日も選別で、おばちゃんはその手伝いで、パムはその他諸々の雑用係だ。
「さあ、気を取り直して、仕事を続けよう」
「ウィッス!」
「はいよ」
「はい、はい。お任せください」
 統一感に欠ける返事には、思わず苦笑してしまったけれど――。
 ともあれ、こうして《遺物管理局》第三課の日常は、いつも通りに始まった。

「それじゃ行ってくるッス」
「ああ、ついでにインクももらってきて」
「ウィス。じいちゃんはなんかいるもんあるッスか?」
「あたしゃ、熱いお茶があればそれで」
「まとめて持ってくるッス!」
 パタパタと軽い足音を立て、パムが部屋を出ていった。
 それをみんなで見送った後、僕は手元の資料に視線を戻した。
「さて、と。こんなところかな」
 ふと思い立って作成していたのは、あの鏡に関する資料だ。
 思い出せる限り、魔法陣や構造をまとめ、自分なりの考察も書き込んでいる。
(やっぱり、《眠りの鏡》っぽくないよなあ)
 未練がましくはあったけど、どうしても考えずにはいられなかった。
 先ほどは他の機能があるだとか、遠隔操作だとか言ってはみたものの、落ち着いて考えるとやっぱりおかしい。
(複合装備とか……そんなものを作るか? あれほどの素材を使って?)
 僕が知っている遺物とは、無意味なことをしないものだ。
 完成度が高く、機能美に満ち、説得力を持っているもののはずだ。
 希少な素材を使い、高度な魔導式を刻み込み、偽装を施してまで『便利グッズ』止まりだなんて――ちょっと僕には考えられない。
(それに、あの感覚。昨夜のあの感覚は……)
 思い返してみると、眠りに落ちる直前、僕はおかしな状態にあった。
 自分で自分を制御出来ないというか、それでいて間違いなく自分であるというか、なんとも言えない心地だった。
(あれで何かつかみかけたんだけどなあ)
 ガリガリと頭をかいてみても、その何かが思い出せない。
 一瞬、ほんの一瞬だけだけど、あの遺物の正体が分かったような気がして――。
 そして、それは、僕が知っているものだと思ったんだけど――。
(図鑑には載ってないしなあ)
 本棚からいくつか図鑑を持ってきて、ついでに論文の写しなども引っ張り出した。
 そのどれもがあの鏡と一致せず、僕は大きなため息をついてしまった。
(まあ、切り替えて、真面目に仕事に励むかな)
 取られた遺物より、次の出会いだ。
(今日も遺物が見つかりますように)
 そんなささやかな願いを胸に、ガラクタ山に手を伸ばすと、

 悲鳴のような声が、聞こえてきた。

「……なんだい?」
 立ち上がるおばちゃん。
 彼女が窓に近づくと、今度は怒号が部屋へと届いた。
「実験室が爆発でもしたのかね?」
 滅多にないことだけど、解析中の遺物が暴発することがある。僕もそれかと思ったけれど、その割には爆発音も震動もない。
「何が起きているんだ……?」
 疑問と不安とが入り混じった顔で、お互いの顔を見る僕たち。
 すると、すぐにも廊下の奥から、騒々しい足音が聞こえてきて――。
「センパーイ! 大変! 大変ッス―――ッ!」
 けたたましい音を立て、部屋へと飛び込んできたのはパムだった。
「パム! 無事だったのか?」
「はいッス! でも、みんなが! みんなが!」
「みんな? 職員たちか? それがどうか……」
「とにかく来てくださいッス!」
「うわわっ!?」
 珍しくも血相を変えたパムは、一息つく間もなく部屋を出ようとする。
 そんな彼女に押し出される形で、僕たちは他の棟へと向かうのだった。


 三章

 死屍累々ししるいるいとは、まさにこのこと。
 駆けつけた僕らが見たものは、廊下に転がる職員たちの姿だった。
「………………っ!」
 陽光が差し込む板張りの廊下に、倒れ、連なる人の影。
 虫のように縮こまった者がいる。
 白目をむき、舌をだらりと垂らした者がいる。
 かきむしるように爪を立て、そのまま力尽きている者がいる。
「ま、まさか」
 青ざめた僕らは、震える手で彼らを指差して、
「死んで」
「あ、寝てるだけッス」
「紛らわしいな!」
 思わずずっこけそうになっていた。
「まったく、驚かせて」
 そう愚痴りながらも、ほっと安堵の息が出た。
 なるほど、確かに、寝ているだけだ。寝相こそ悪いけど、みんなスヤスヤと安らかな寝息を立てている。
「おぅ~ん、ちゅっちゅっ!」
 中には同僚を抱き枕にして、その耳たぶに吸いついている者までいたけれど、
「そんなものしゃぶったら、お腹壊すッスよ~」
 見かねたパムが揺すったところで、むずかるだけで少しも目を覚まさなかった。
「ちょっとやそっとじゃ起きそうにないなあ」
「あの廊下の向こうも、下の階も、こんなのばっかりッス」
「こっちはこっちで、何だか大変なことになってるしねえ」
《遺物管理局》に四つある棟のうち、東の棟はすべて二課の領域だ。遺跡に乗り込み、遺物を回収し、時には闇ブローカーとも戦う実動部隊には、多くの人員と、それ相応の広さの部屋が与えられている。
そのうちの一つ、二階にある事務所に、僕たちはやってきたのだけれど――。
 そこで見たものは、武闘派の二課らしからぬ面々だった。

「はふっ、はふっ! もぐもぐ」
「うめぇ……ふーっ、煙草、うめぇぇぇ!」
「よーし、おじさん、もう一本空けちゃうぞぉー!」

「な、なんなんだ……?」
 一心不乱に菓子をむさぼる女。うつろな目で煙草をふかす男。そこに麦酒ビールをラッパ飲みするおじさんも加わって、事務所は混沌とした様相を呈している。
「旅行だ! 俺は旅に出るぞーっ!」
「ミモザーッ! 今会いに行くよーっ!」
「わたしはデートに行くわーっ!」
 僕らが呆然としている間にも、喜色満面、部屋から飛び出していく者がいた。
 それなのに、残る職員は彼らをとがめず、というか見向きもせずに、自分のやりたいことをやっていた。
「こりゃ手がつけられないねえ」
「もう無茶苦茶ッスよぅ!」
 てんでバラバラに動く職員たちの中、おばちゃんは呆れ混じりにそう言って、パムは泣き声を上げていた。
 まあ、それも仕方がない。彼らの好き勝手に振る舞うさまは、とても『鬼の二課』、『鉄の軍団』と呼ばれる者とは思えない。
 一体、何が彼らを変えてしまったのだろうか?
 注意深く辺りをうかがいながら、原因になりそうなものを探していると、
「う、うう……」
 一人、まだまともでいる職員を発見した。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
「う、うう、君は、確か、三課の」
「はい、ウォルハルトです! ウォルハルト・ウォーレンです!」
 苦悶に満ちた顔で胸元を押さえ、部屋のすみで這いつくばっていたのは、誰あろう二課の課長、バブニスさんだった。
「気をつけろ、ウォルハルト。気をつけるんだ」
「バブニスさん、しっかり」
「気をつけろ! あああっ! 鏡に気をつけろ、ウォルハルト!」
「バブニスさん!」
 武人然として、いつも厳しいバブニスさん。多くの職員を率い、自らも先頭に立って戦うバブニスさん。そんな彼が、子どものように怯えている。僕にしがみつき、僕の腕を握り締め、何かに気をつけろと叫んでいる。
 ――いや、『何か』じゃない。今、彼は確かにこう言った。「鏡に気をつけろ」と。
 つまり、この事態を引き起こしたのは、鏡の形をしたものだ。そしてそれは、もしかすると、昨夜、三課にあったものかもしれない。
「話を聞かせてください。鏡について、もっと情報を!」
「うっ、ううっ! ううう!」
「頑張ってください、バブニスさん! 意識を保って!」
「う、うう、うう。あれは。うう、あの、鏡、は」
「あの鏡は? あれは一体……?」
 少しでも情報を引き出すべく、僕はバブニスさんを揺さぶった。聞ける範囲のことを聞こうと、必死に耳をそばだてた。
 すると、彼は苦しそうに体を震わせ、あえぐように口を開くと、

「バブゥゥゥゥゥゥッ!」

 赤子のごとき叫び声を上げた。
「って、えええええっ!?」
 変化は一瞬だった。その一瞬で、何もかもが変化した。
「ダァァ! キャッキャッ♪」
「いや、ふざけてる場合じゃないですよ!」
「アゥゥ。ムィ~!」
「むいーじゃなくて!」
 あれほど苦しんでいたというのに、今のバブニスさんはひっくり返り、赤ん坊のように指をしゃぶっている。その顔や体はどこまでも弛緩しかんして、ストレスのスの字も感じさせない有様で――あ、あああ、おしっこまで漏らした。
「だ、駄目だ。正気を失っている」
「見りゃ分かるッスよ!」
 パムにはそうつっこまれたけれど、変化はあまりにも急だったんだ。バブニスさんは苦悶の表情から一転、あどけないベイビーフェイスに変わってしまった。
 一体全体、本当にもう、何が起こっているのやら――。
「赤ちゃんプレイが好きだって、噂では聞いてたッスけど……何もこんな時にしなくても……」
「そんなのどこで聞いたんだ」
「相変わらず、耳がいい子だねえ」
 仕事上、局内をちょろちょろと回るパムは、ここでは屈指の情報通だ。
 そのパムが言うことなら、多少は真実味のあることなのだろう。少なくとも、根も葉もない噂ではないはずだ。
 つまり、バブニス課長は、赤ちゃんプレイの愛好者。夜な夜なバブバブ言ってる猛者もさだったというわけだ。
(……知りたくなかったなあ!)
 ついでに言えば、見たくもなかった。あの立派なバブニスさんが、赤ちゃんみたいにおしっこ漏らす姿なんて。
「アオーゥ♪ アブブブブ……」
「なんだか泣きたくなってきた」
 やたら甲高い声から遠ざかりながら、僕は目元を拭っていた。

「しかし、本当になんなんだろうね?」
「え?」
「遺物のせいなんだろうけど、症状が全然違うじゃないか」
 二課の事務所を出ると、おばちゃんがそんなことを言い出した。
「てっきり課長さんが言ってた鏡の仕業かと思ったけど……どうも、違うみたいだねえ。四つか五つは動いてそうだ」
 寝転がる職員と、好き勝手に動く職員とを見比べながら、おばちゃんは自分の考えを口にしている。なるほど、確かに、そう見えなくもない。《睡眠》、《中毒》、《飢餓》、《退行》と、複数の遺物を用意すれば、それぞれの魔術が使えそうだ。
 でも、僕の考えは違う。この現象は、一つの遺物で事足りると思えた。
「僕はあくまで、鏡のせいだと思います」
「はあ?」
「眠たいから寝る。菓子を食べたいから食べる。煙草をふかしたいからふかす。酒を飲みたいから飲む。違うように見えて、これらは全部同じなんです」
「どういうことだい?」
 おばちゃんは怪訝そうな顔をしていたけれど、僕にはそうとしか思えなかった。
 なぜなら、それは――。
「僕も同じだったんです。あの鏡を見たことで、知りたい気持ちと、眠たい気持ちを抑えることが出来なかった」
「こいつらみたいにかい?」
「ええ。みんな、したいことをしている。やりたいことをやっている。欲望がむき出しになっている」
「じゃあ、あの鏡は……!」
「はい」
 僕は大きくうなずくと、はっきりとこう告げた。

「あれは、欲望を引き出す鏡なんです」

 そう、それがあの遺物の正体だった。
「って、大事件じゃないッスかぁーっ!?」
「そうだよ」
「んなもんが出回ったら、管理局が崩壊するッスよ!」
「そうだよ、そうなんだよ、非常にまずいんだ……」
 考えれば考えるほどに気分が沈む。
「まずい、正直まずい。とんでもないことになった」
 まさか、あの鏡がそんなに危険なものだったとは。
 まさか、それがガラクタに交ざって送られてくるとは。
 まさか、管理局の誰もその正体に気づけなかったとは。
 そしてまさか、今も稼動状態で、使い回っている人がいるとは!
「完全に予想外だ。そんなものが実在するだなんて、夢にも思わなかった」
「あたしも聞いたことないねえ」
「おとぎ話のアイテムみたいッス!」
 まさしくその通りだ。人を欲望に狂わせる遺物なんて、それこそおとぎ話でしか聞いたことがない。
 そんな危険な物体、一体、どこの誰が見つけてきたのやら。よく搬送途中で騒ぎが起きなかったなと感心しながら、必死に頭を働かせる。
「まずは通報しよう。《導書院》と《治安局》に事情を説明し」
「もうしたッス! でも、通信が繋がらなかったッス!」
「なにぃ!? じゃ、じゃあ、走って呼びに行って……」
「駄目みたいだね。こんな大騒ぎしてるのに、《書士》も巡視も冒険者も来ないよ」
「何が起こってるんだ!?」
 壁かけの通信機は混線状態にあり、窓の外を見ても巡視の一人も見当たらない。
 頼りになりそうな二課は全滅し、そのうえ、鏡の所在も分からない。
「こりゃ思ったよりとんでもない事態だよ」
 普段は朗らかなおばちゃんが、険しい目つきになっている。
 そのギラリと光る目を追って、局内や、街角に目を向けたところで――。

「助けてくれぇぇぇぇぇっ!」

 中庭から、新しい悲鳴が聞こえてきた。


 四章

 《遺物管理局》は三階四棟の造りであり、それらの建物が中庭を囲んでいる。
 だから、駆けつける間にも悲鳴は聞こえてきたし、その様子がよく見えた。
「なんなんスかね!?」
「いや、分からない! 分からないが、急ごう!」
 あの声、あの挙動は、追い詰められた者のそれだ。どう考えても緊急を要するものであり、応援を呼んでくる暇なんてなかった。
(まずは自分たちの手で、どうにかしなければ……!)
 焦りで足がもつれそうになったけれど、それでも必死にふんばって、僕らは中庭へと飛び出していった。
 そして、そこで目にしたのは――。

「ムキ――――――ッ!」
「助けてくれぇ!」
「ムキャァホッ!」
「ひいい! 止めてくれ!」
「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ」
「後生だ、後生だ、それだけはあっあっ!」

「……いや、なんなの、これ」
 助けを求める声に応え、息せき切って駆けつけてはみたものの。待っていたのは、あまりにもあんまりな光景だった。
「止めてぇ! 止めてくださぁい!」
「ウキィィィィ―――――――ッ!」
「あああああああああ~~~~っ!?」
 太めの紳士が這い蹲って、その上に細身の青年が乗っている。
 なぜか青年は紳士の髪を抜き、それを紳士は泣き叫んで止めようとしている。
「あれ、一課の課長さん?」
「ええ、まあ、はい」
「なんか、毛をむしられてるッスよ?」
「うん、まあ、そうだね」
「もう一人の方は……」
「同じ一課のナルシスです」
 呆然としながら、言葉を交わす僕たち三人。
 その視線の先にいるのは、一課課長のハーゲスさんと、ナルシスという職員だ。
 あの二人は親戚で、課長はおいっ子を目に入れても痛くないほど可愛がり、ナルシスはそれを誇らしげに語っていたはずなんだけど。
「ウキャァホ! ウキャアアホッ!」
「ひいいいっ! ひいいいいいっ!」
 そのナルシスが、敬愛する伯父の頭髪を容赦なく引き抜いている。
 何がどうなってこうなったのかまるで分からず、僕が唖然として見ていたところで――パムが、ポンと手を叩いて言った。
「あれはチンパンッス!」
「チンパン?」
「サーカスで見たッス! 南の島に住む、やりたい放題なお猿さんッス!」
 なるほど、確かに、今のナルシスは猿そのものだ。普段の気取った様子はどこへやら、今の彼からは知性の欠片も感じない。
「さてはあいつ、鏡を見過ぎたな?」
「どういうことッスか?」
「あいつは鏡が大好きで、窓に映った自分を見ても、悦に入るような奴なんだ」
「ってことは」
「大方、他の人より鏡を見過ぎて、理性を完全に失ったんだろう」
「あー……」
 欲望を引き出し、自制心を失わせる魔性の鏡。その影響を強く、より強く受けてしまうと、本能に忠実なチンパンと化してしまうのか。
(とすると、放っておくのは厄介だな)
 今の彼は欲望のおもむくまま、何をしでかすか分からない。
 現時点で、すでに一課課長が襲われているんだ。このまま放置しておけば、第二、第三の犠牲者が出るかもしれないし――。
 その課長だって、長くは持ちそうにない。
「あ、ああ、君たち。君たち、よく来てくれた。なあ、分かるだろう? 分かるはずだ。もう限界なんだ。もう私には耐えられない……儚い命が消えていくのが、はっきりと分かるんだ……!」
「は、はあ」
「今までの非礼は詫びる。冷遇したことも謝ろう。だから、あっ、あっ! んひぃ! もう、もう止めてくれぇぇぇぇぇ!」
「ムキャアアホウッ!」
 元々薄かった彼の頭部は、もうすっかり毛を失っていた。
 それでも、最後に残った一房だけは、死守しようと頑張ってはいるが――。
 状況はかんばしくない。無慈悲なチンパンは、根こそぎむしり取ろうとしている。
(いや、でも)
 どうやって止めればいいんだ?
 男とはいえ体力に自信がない僕と、残る二人は主婦と女の子だ。リミッターが外れたような野獣を相手に、何が出来るとも思えない。応援は望むべくもないし、探しに行けば手遅れになるだろうことは予想が出来た。
(これは詰みなんじゃないか……?)
 考えあぐねて手が止まる僕。
 しかし、そんな僕の部下は、僕に比べてとても頼もしかった。
「センパイ! チンパンにはナナバッスよ!」
 ショルダーポーチから黄色い果実を取り出すパム。彼女はそれを掲げてみせて、次いで、課長とナルシスを指差した。
「ナナバはチンパンの大好物ッス。これで気を引くッスよ!」
「おお!」
「ははあ、それでどっかの部屋に閉じ込めようってわけかい」
「そうッス!」
 自信満々なパムの提案。それはそう悪いものとは思えなかったし、極めて有効のようにも思えた。
「ほ~ら、ナナバッスよ~」
「ホキ?」
「甘くて美味しいナナバッスよ~」
「ムキャァホゥ……」
 現に、ナルシスはナナバに興味を示し、毛を毟る手を止めている。
 恐る恐る近づくパムを威嚇せず、差し出された果実の匂いを嗅いでいる。
(お、おお! これは!)
 僕らが固唾かたずを呑んで見守る中、ナルシスはナナバを受け取って、

 ――――――ズンッ!!

 それを課長のケツへと叩き込んだ。
「って、えええええええええっ!?」
「ムキョアアアアアアアアアアアア!!」
 一体、何が気に食わなかったのか。ナナバをカンチョーの道具にしたナルシスは、顔を真っ赤にして怒り狂っている。
「………………うっ」
 哀れ、その犠牲となった主任は、最後の一毛まで散らし気を失った。
 彼の尻から突き出たナナバは、虚しくゆらゆらと揺れていた。
「センパイ、ダメでした!」
「そりゃあね! そりゃあね!」
「チンパンだけどチンパンじゃないものねえ」
 冷静に考えてみると、当たり前のことだった。
 ナルシスはチンパンじゃなくて人間だ。それもいいとこのお坊ちゃんであり、それゆえに、安物のナナバなんて受けつけられなかったのだろう。
「ほら、あんなにも怒って……って、あああ、ダメだ! こっちに来るぞ!」
「センパイ、逃げましょう!」
「逃げる? 逃げるってどこに!?」
「ウキィィィィィィッ!」
 チンパンの逆鱗げきりんに触れた僕らは、中庭を追いかけ回される羽目となった。
 しかし、僕ははっきり言って足が遅い。それを助けようとしたパムまで巻き込んで、少しもしないうちに転んでしまった。
「ひえええ~っ!?」
「いや、まだだ! まだ追いつかれて……」
「も、もう、遅いッスぅぅぅ~~~っ!」
 中庭のすみに追い詰められた僕とパム。
 そこへ飛びかかってくるチンパンナルシス。
 野獣と化した青年は、正気を失った目で僕らに迫り、

「やれやれ、困った小僧っこだねぇ」

 横から突き出た太い腕に、捕まってしまった。
「ウギッ!? ギィイイ! ウギィ!」
「こらこら、はしゃぐんじゃないよ」
 猛烈な勢いで暴れるナルシスを抱きしめて、ヘッドロックまでかける女性。
 彼女は――おばちゃんだ! 週五のパートのおばちゃんだ!
「って、なんでだ!? なんであんなに腕っ節が」
「おばちゃんは元冒険者ッスよ?」
「そういえばそうだ!」
 その選別眼を見込まれての雇用だったが――。
 経歴としては、確かに、元冒険者という肩書きを持っている。
「それも《紅蓮の鬼殺し》って呼ばれてた、有名な人ッス」
「そ、そんな異名があっただなんて」
 ただのおばちゃんだと思っていた人が、まさかそんな過去を持っていたとは。
 見せつけられた実力に、僕は驚きを隠せなかった。
「何ぼさっとしてるんだい! 早く行きな!」
「おばちゃんはどうするんスか!?」
「この子、案外、元気が良くてねえ! しばらくここで遊んでるよ!」
 そんな軽口を叩くおばちゃんの額には、うっすらと汗がにじんでいる。
 かつての英雄も歳には勝てないのか、それともナルシスが手強いのか。おばちゃんは暴れるチンパンを押さえるので、精一杯なように見えた。
「僕らも加勢を……!」
「いいから行きな! 鏡を捜すんだよ!」
「……分かりました! この場は任せます!」
「おうともさ!」
 今のナルシスを放置するのは危険過ぎる。だからといって、僕らじゃ足手まといになるだけだ。
 そう判断した僕は、パムを連れて中庭から抜け出した。
「い、いいんスか?」
「いいんだ。ナルシスはおばちゃんに任せよう」
「でも」
「鏡を見つけるんだ。まずは騒動の元凶を断とう」
「……はいッス!」
 迷いを見せるパムの手を引き、僕は他の棟へと向かう。
 《魔力盤》で魔力の流れを探知しつつ、それを辿って南棟へと駆けていく。
 そう、鏡だ。鏡さえ無力化出来れば、何もかもが解決する。根元さえ断ってしまえば、後は効果が切れるのを待つだけだ。
 そう考えて、僕は鏡を捜したのだけれど、

「見てくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 すぐに、おばちゃんを残してきたことを後悔した。


 五章

「見てくれ! 私を見てくれ!」
「駄目じゃないか! もっとよく見ないと!」
「ここだ! 私はここにいるぞ! 逃げも隠れもしていない!」
「そうだ! 私だ! ありのままの私を見るんだ!」
「見て、アッ、アッ、見て、見て」
「見てくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

「「…………………………」」

 《遺物管理局》、南棟の正面玄関からほど近く。
 広々とした大講堂では、なぜか、全裸の男が飛び回っていた。
「ほうら、見るんだ。私を見るんだ」
「助けっ! 助け……うぐうっ!?」
「おうふ……いい、いいぞ。ナイスルッキングだ」
 同僚に自分の裸を見せつけて、昏睡させていく壮年の男。筋骨隆々とした偉丈夫は、軽やかなステップで次の獲物を追いかける。
「え、あ、あれ?」
「…………」
「ゼンドランさん、ッスよね?」
「止めろ」
「いやいや、絶対ゼンドランさんッスよ! 一課のエースの!」
「止めろ」
「ほら、センパイ! 見てくださいよ! ゼンドランさんッスよ!!」
「止めてくれ……」
 その現実を認めたくなかった。
 一課のエース。未来の局長。その名も高きゼンドラン。
 異例の速さで係長へと登りつめた彼は、誰もが認める傑物だ。
 遺物についての造詣が深く、それを扱うに足る技量を持ち、自ら遺跡島に乗り込む気概も持っている。一課を追い出されはしたものの、未だに尊敬している身としては、あれがゼンドランさんとはどうしても認められなかった。
 でも、どこからどう見ても、彼はゼンドラン係長で――。
「見てくれ! 私のすべてを見てくれぇぇぇっ!」
「って言ってる割には、大事なところはちゃんと隠してるッスね」
「見てほしいけど見てほしくない、微妙な男心があるんだよ……」
「ちょっ、ちょっと理解出来ないッス」
「そうだな……」
 ぼやきながら、大講堂をのぞき見する僕たち。ゼンドランさんにやられたのか、そこには受付の人や一課の職員たちが倒れている。
 そして、ゼンドランさんは活き活きと、ミツバチのように飛び回り、
「あっ、センパイ! あれ!」
「え?」
「あのお盆みたいなの! あれって!」
「ん……?」
 お盆? あの前貼りのようなものがどうしたんだろう?
 ――って、あれは!
「例の鏡じゃないか!」
「やっぱり!」
 モザイク代わりに使われて、ゼンドランさんの股間を隠していたものこそ、事件の元凶、鏡の遺物だった。どうやら《魔素燃料》を足されているのか、鏡は僕が見た時よりも怪しげな光を帯びている。
「最悪だ……!」
 これでは全身、見てはならない場所だらけだ。公序良俗に反するばかりか、股間の鏡で実害も生まれてしまう。
(布でも被せるか?)
 そうしたいのは山々だけど、今のゼンドランさんは全力で抵抗するだろう。露出願望を隠し持っていた彼が、大人しくシーツにくるまるとはとても思えない。
となれば、力ずくの話になるのだけれど、
「こういう時に二課の人たちがいれば……」
「みんな寝てたッスもんね」
「二課は激務だものなぁ!」
 ゼンドランさんを取り押さえられそうな戦力は、今はそろって夢の中だ。あるいは禁酒、禁煙の誓いを破り、それらを大いに楽しんでいることだろう。
 そんな彼らに頼るわけにはいかず、でも、状況を打破する力が僕にはなく――。
「おお! ウォルハルト君!」
「くそっ! 見つかった!」
 手をこまねいているうちに、大講堂にいた人は全滅していたようだ。
 誰も彼もが鏡に魅入られ、自分の世界に浸ってしまった。欲望に囚われた人々は、全裸の男さえ無視し、好き勝手に振る舞い始めている。
 それで物足りなくなったのだろう。ゼンドランさんは辺りを見回すと、見つけた僕たちの方へと近づいてきた。
「わざわざ見に来てくれたのか。すまないなあ」
「い、いえ、違います」
「なんだ、水臭いじゃないか。私たちの仲じゃないか」
「違いますから」
 逃げるに逃げられず、ゼンドランさんの接近を許してしまう。盛り上がった筋肉が脈動し、むんむんと湿った熱気を肌に感じる。
「ほら、君の大好きな遺物もここにある。見てごらん?」
「や、止めてください」
「怖がることはないんだ。遺物はまず観察しなくちゃいけない……だろう?」
「それはそうですけど!」
 自分からは決して手を出さず、しかし、圧力をかけて追い詰めていく。
 これがゼンドランさんのやり方だ。《遺物管理局》トップエリートの仕事の流儀だ。
(まずい……これは、まずい!)
 そう思いながらも、僕は目を逸らすので精一杯だ。
 ゼンドランさんを振り払うすべはなく、ここから逃げ出す脚力もない。
(どうしようもないのか……!?)
 このまま何も出来ず、あわや、ここで脱落かと思われたが――。

「こ、このぉ! センパイを放せぇ!」

 僕には部下がいた。
 こんな僕を慕ってくれる、パムという少女がいた。
「あっちに行け! センパイから離れるッス!」
 彼女はショルダーポーチを振り回し、何度もゼンドランさんにぶつけている。非力ながらも力を尽くし、どうにかして追い払おうとしている。
しかし、相手はいわおのような大男だ。少女の攻撃など意にも介さず、逆に小バエを払うようにでん部を振りたくった。
「バッドルッキング! そのような目で私を見てはいけない!」
「ああっ!?」
 引き締まったでん部に弾かれ、パムは子犬のように廊下を滑った。
 よほどの衝撃だったのだろう。立ち上がろうとしては失敗し、荒い息をついている。
「そう焦らずとも、今、君にも見せてあげよう」
 悠然と歩むその姿は、まさに王者のごとしだ。それを目ではなく、肌から感じ取りながら、僕は拳を握り締めていた。
(くそっ……!)
 何が遺物管理のプロフェッショナルだ。何が何でも知ってる研究者だ。
 こんな時に何も出来なければ、どんな肩書きも意味はない。少女一人救えないなんて、男を名乗る資格もない。
(くそぉぉぉ……!)
 遺物に関してなら、誰にも負けない自信があった。それなのに、結局、何も出来なかった。
 それがどうしても悔しくて、悔しくて、うつむいたところで――。

 その声は、聞こえた。

「――ウォルトよ」
「……えっ?」
「――ウォルハルトよ。今こそ、この遺物を使うのだ」
「じいさん!?」
 一体、いつからそこにいたのか。
 僕のかたわらには、三人目の部下、じいさんの姿があった。
「いたのか!?」
「いたよ。ずっと」
 悠然と微笑むじいさんは、確かに、ずっとそばにいたような、いなかったような。
 いや、今はそんなことはどうでもいい。問題は、彼が渡してくれた遺物だ。
「これって……」
 今朝、じいさんに修理を頼んでおいた遺物だ。簡素な形の指輪で、少し欠けていたところが見事に直っている。
 でも、それだけだ。これじゃ役に立たない。この危機的状況で、これを使っても――いや、違う!
「そうだ、これだよ! これを使うべきなんだ!」
 そう、この遺物だ。これを使うんだ。これしかない。これを使え!
 頭の中から声がする。培った知識が、指輪を使えと言っている。その声に逆らわず、指輪を受け取った僕は、急ぎそれを指に通した。
「じいさん、ありがとう! 使わせてもらう!」
 素早く細部を確認し、ゼンドランさんへと拳を突き出す。すると、簡素な指輪が花開くように展開し、複雑な魔法陣を形作った。
「装填!」
「おおっ! 見てくれっ!」
 詠唱と呼ぶにはあまりに短い文言。それに反応したゼンドランさんが、振り返り、裸体を惜しみなく晒してきたところで――。
「――――投射!!」
 それより早く、僕の魔術が炸裂した。


 エピローグ

「調査の結果、あれは《選定の鏡》ということが分かりました」
「ほう」
「王位継承者たちに鏡をのぞかせ、邪心がないかを暴き立てる。そうすることで、より良き王を選ぼうとしていたみたいです」
「だが、選ばれなかった奴が、邪心か野心を暴走させて……ってところか」
「はい。ゲドラ諸国のアルメロイ王でしたっけ? 名前については記載がありませんでしたが、おそらく、この本と合致するものと思います」
 そう言って机に載せたのは、『おうさまのかがみ』という絵本だった。
 これは王になれなかった王子が、鏡に映った自分にそそのかされて、無理やり玉座についてしまうという話だ。そしてその王様は、反対する人たち全員を国から追い出して、誰もいないお城で笑い続ける――という終わり方をしている。
 絵本向けに改変されてはいるけれど、ここに出てくる王様がアルメロイという人物で、彼を変えてしまったのが《選定の鏡》なのだろう。こういった古い絵本は口伝を元にしていて、それが遺物の特定に役立つことはよくあることだった。
「しかし、人の欲望を引き出す鏡とはな。そんな面白い鏡じゃったとは……!」
「いや、迷惑なだけだろう。すまないな、そんなものを持ち込んで」
「いえいえ。僕はかえって良かったと思います」
「……そうか?」
 と、つぶやくと、鏡を持ち込んだ冒険者――エドワルディさんは、ちらりと周りに目を向けた。
「う、う~ん……」
「髪が、私の髪がぁ……」
「ほんぎゃ! ほんぎゃ!」
 彼の視線の先にいたのは、大講堂に横たわる職員たちだった。
 いずれも鏡によって被害を受け、心身に多大な影響を受けた人たちだ。局内のあちこちで見られる彼らの姿に、エドワルディさんは責任を感じているみたいだった。
「もう少し厳重に扱うべきだったか」
 そんな彼に、僕は――やっぱり、これで良かったと思っていた。
「結果論になりますが、この程度で済んで、かつ、ここで鏡を壊せたことは僥倖ぎょうこうでした」
「壊したぁ? あの鏡を壊したというのか!」
「ええ。《増幅》によって木っ端微塵みじんに砕きました」
「なるほどな。意図的に暴走させたわけか」
「はい」
 過剰なまでに燃料を入れられ、限界に近いほど出力させられていた鏡は、張り詰めた風船のようなものだった。僕はそこに少し力を加えるだけで良かった。僕が放った《増幅》の魔術は、あの鏡を内側から崩壊させた。
「まあ、そのせいで、彼の股間がとんでもないことになりましたが……」
「「え?」」
「い、いえ、余談でした」
「ゥンバアアアアアアアアアアア!」と叫びながら股間(の鏡)を爆発させたゼンドランさん。幸い、彼の命に別状はなかったけれど――い、いや、止めよう。あの人のことを考えると、そればかり考えてしまいそうだ。
 なんとか話を元に戻しつつ、僕は自分の考えを述べていく。
「もしもエドワルディさんたちが鏡を持ち帰らなかったら。もしも予定通りに調査隊が遺跡に行ったら。もしも裏のルートに鏡が流れたら。もしも邪教の関係者が入手して、鏡を悪用していたら……」
 いずれもろくなことにはならなそうだった。
 調査隊の内輪揉め、内部崩壊。裏の人間たちの精神汚染。邪教徒による破壊工作や、要人暗殺などの反社会的活動。より良い王様を決めるための鏡は、ちょっと考えただけで、いくらでも悪用が出来そうだった。
「仮にも一国を滅ぼした鏡です。だからこそ、他に出回らず、ここで破壊出来たことは、最良の結果だったと考えます」
 それが僕の結論だった。
「ふむ……」
 エドワルディさんはしばし腕組みをして周りを見ると、改めて口を開いた。
「確かに、それで良かったのかもな。今の街の状況を見るとな」
「まあのう。そう言われるとそうじゃな」
 彼の相棒、シアさんも、何やら難しい顔をしてそう言い出した。
「まさか、邪教の奴らがあんなにはしゃぎ回るとはの」
 そう言って、うんざりとしたようにため息をつくシアさん。
 邪教。そう、邪教だ。実はあの日、鏡の騒動が起きた当日、《アーケイン=ガーデン》は危機的状況にあったんだ。
 なんでも、邪教徒たちが街の内外で騒ぎを起こし、なんとこの要塞島を落とそうとしていたのだとか。その活動は《アーケイン=ガーデン》の内部にまで及び、あわや、《魔の眷属けんぞく》の跋扈ばっこを許すところだった――らしい。
 エドワルディさんやシアさんもそういった事件に巻き込まれ、当日はてんやわんやの大騒ぎだったようだ。道理で通報が出来ず、誰の応援も得られなかったわけだと、僕は後になって一人で納得していた。
「もしかすると、島の発見も邪教の仕業かもしれませんね」
「なんじゃとおおおおっ!? おのれ、貴重な遺跡をなんだと思って……」
「もしかしたらの話だろう」
 そうエドワルディさんは言うけれど、僕はその可能性が高いと見ていた。
 同時多発的に事件を起こし、予言の精度を下げる目的ならば、邪教にとってはどう転んでも良かったはずだ。島に人員が割かれるも良し、遺跡攻略に冒険者が集まるも良し、鏡で騒動が起きるのも良し――。
 いずれにせよ、目を逸らせれば良かったんだ。他の多くの事件から、予言を司る神の目と、この時代に生きる人々の目を。そうした企みが組み合わさり、かつてない規模で起きた《アーケイン=ガーデン》襲撃事件は、数日経った今でも多くの傷跡を残していた。
「あああ、ナルシス! それはおもちゃじゃないぞ!」
「誰かーっ! バブニスさんがまたおしっこを漏らしたわ!」
「ゼンドランさん! 包帯を取らないで! 安静にしてください!」
 チンパンめいた行動を見せたり、幼児退行から戻らなかったり、少しでも肌を露出させようとしたりと――鏡の影響は抜けつつあるけれど、未だ予断を許さない被害者を抱え、《遺物管理局》は機能停止状態にあった。
「続くんですかね、こういうことが」
「さあな」
 ぽつりとつぶやいた言葉は、エドワルディさんでも答えようがないことだ。
 邪教徒たちが何を企んでいるかだなんて、それこそ当事者でもなければ分からないことだろう。ひょっとすると、二の矢、三の矢が用意されている可能性だってある。
 だけど――。
「まあ、いい薬になったのかもな」
「え?」
「薬だ。平和ボケのな」
 驚いた。どうやらエドワルディさんも、同じ事を考えていたみたいだ。
「まあのう。何百年もふわふわ空に浮いていて、少し気が緩んでいたところはある」
「自覚していたのか?」
「はああああっ!? このシア様に隙はない! お主ら人間のことじゃ!」
 僕がほうけている間にも、二人はじゃれ合うように喧嘩を始めた。
 そのドタバタからわずかに身を離しつつ、僕はこの場所のことと、僕自身のことを考えていた。
(管理局もこの僕も、どこかズレていたのかもな)
 遺物を出世の道具にしたり、好奇心を満たす道具にしたり。そういったことは、多分、本来の《遺物管理局》のあり方じゃないんだ。設立された当時は、きっと遺物を社会に役立てようと、それが第一にあったはずだ。
 それが長い長い時を経て、ゆっくりと歪んでいったのかと思うと――自分も関係あるだけに、情けないような気がしてくる。
(ただ……)
 同時に、それが大きく動くような予感もしていた。
 《遺物管理局》のことだけじゃない。この島のこと、この世界のこと、ありとあらゆる全てが大きく動き出しそうな――そんな予感を、心のどこかで感じている。
 このたびの大事件は、そのきっかけなのかもしれない。そしてそれは、多くの人が感じていることかもしれない。
「センパーイ! 仕事、仕事ッスよーっ!」
 大講堂の入り口に、頼れる部下の姿が見えた。
 その後ろには、他の課の職員たちの姿もある。
 緊急時ではあるけれど、今、《遺物管理局》は課の隔たりを無くして活動している。一課だ二課だと対立せずに、こうして一緒に仕事をしている。
「センパイ! やっぱり行方不明になった遺物があるッス!」
「痕跡を辿るのは我々がやろう」
「対処は私たちが」
「では、僕は鑑別を担当します」
 適材適所で仕事をこなし、一つの案件を片づけていく。
 これだけでも大きな変化で、僕は正直、信じられない気持ちでいたけれど――。
 多分、きっと、まだまだこれからなんだ。
 きっと、もっと大きな変化が訪れる。そしてそれは、僕らの人生を大きく変えていく。
 そんな予感を感じつつ、僕は――僕ら《アーケイン=ガーデン》の人々は、変わり始めた日常の中へと戻っていった。



《神剣の騎士》が、滅びの予言を打ち破った。

 僕らがその報を聞いたのは、それからすぐのことだった。

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