「ジーク——……」
 置いてきてしまった。
 あの燃え盛る家にジークとマリアちゃんを置き去りにしてしまった。
 その事実が私の胸を痛めつける。
 ようやく大聖堂から抜け出せて、これからは新しい生活が始まると思ったのに……世界は甘くなんてなかった。パリンクロンが裏切り、『火の理を盗むもの』アルティは拠点の家を燃やし、マリアちゃんは仇を見るかのように私を睨んでいた。
 まだ戦いは何も終わっていない——のに、私は何もできず、セラちゃんの背中に乗っているだけだった。それが悔しくてたまらない。
 ……わかってる。
 いま、私が降りたらディアの回復ができなくなる。ハインさんは神聖魔法よりも風魔法が得意な上、そもそも魔力が空っぽだ。セラちゃんはみんなを運ぶ大事な足だから、狼の形態から戻ることはできない。
 絶対に私はジークと一緒に残ることはできなかったのだ。
「くっ、うぅ……っ」
 歯噛みしながら、私は儀式で疲労困憊となっている身体に鞭を打つ。腕の中には胴体を袈裟切りにされた重傷のディアがいる。神聖魔法の構築を途切れさせると、ディアは失血死してしまう。それだけは避けないといけない。
 いま私にできることは、ジークを信じてディアを回復させることだけ……。
 ——こうして、私とディアとハインさんを乗せた狼形態のセラちゃんは、ヴァルトの街を駆け抜けていく。南へ、南へと。
 その途中、周囲の様子を伺っていたハインさんの表情が曇った。このまま楽に逃げられないと察した表情だ。そして、悪化し続ける状況を全員へ聞こえるように説明し始める。
「……まずいです。パリンクロンが軍馬に乗って追ってきています。いつ用意したのか……いや、全てがパリンクロンの計画通りだったようですね。あらかじめ用意していた兵で、じわりじわりと私たちの逃走ルートが塞がれていっています。このままでは……——」
 ハインさんは後方だけでなく側面にも目を向けている。
 耳のいい私も気づいている。遠くから軍馬の駆ける音が聞こえる。その音は何重にも重なっていて、その音がじわりじわりと私たちを包囲している。敵は多く、そして組織的だ。
 その状況を聞き、まずセラちゃんが背中にいる私たちのほうへ顔を向けた。しかし、それをハインさんは即座に首を振って制する。
「いえ、騎士セラ・レイディアント。あなたはお嬢様の傍にいてください。あなたがいなければ逃げられるものも逃げられるなくなる」
 セラちゃんが戦うことを止めて、ハインさんは脇腹を手で押さえながら立ち上がろうとする。彼はディアを助けるために深手を負っている。傷は治っているように見えるが、それは表面上だけであると神聖魔法に詳しい私にはわかる。
 いま、ハインさんは戦える状態ではない。戦えば、確実に傷が開く。それも致命傷が。
「ハ、ハインさん……?」
 なのに、彼は剣を持って動こうとしている。その理由を私は目で問う。
「このままでは全員が捕らわれてしまいます。ここはあなたの騎士ハインにお任せください。我が主よ」
 返ってきた理由は、とてもあっさりとしたものだった。
 それもわかってる。
 そうするしか他にないってわかっている……けど——
「ハインさん……! 駄目です! ここで降りたら、きっともう二度と——!」
 ——ジークだけでなく、ハインさんまでも置き去りにするなんてできない。
 そうする他ない現実を認めたくなくて、私は叫んだ。
 それをハインさんは驚いた表情で受け止めた。そして、かつてない優しい表情で笑って、私の頭を撫でて、首を振った。
「……私はあなたに二度と嘘をつけません。なので、正直に申します。……私はここまでのようです」
「ここまで……?」
 それではまるで二度と戻ってこないかのような口ぶりだった。
 事実、そうであるとハインさんは言葉を付け加えていく。微笑みながら……。
「ええ、私の夢の旅路はここまでです。おそらく、私はパリンクロンと戦って命を落とすでしょう」
「——え?」
「けれど、それで私は構いません。いえ、それこそが私の望んだ結末なのです。いま、私は人生で最高の満足感を得ています。贖罪が終わり、夢を叶えた。そして、あなたを自由にするという未練をも果たせる。もしここで倒れたとしても後悔なんてありません。本当に……この夢を叶えてくれた少年とパリンクロンには感謝しても感謝しきれません……。ふふっ……」
 叶えてくれたのはジークと……パリンクロン?
 ハインさんは何を言っている?
 いま、パリンクロンは裏切り、私たちを追っている。そのパリンクロンに感謝する理由がわからない。
 彼の話は理解できなかったが、とにかくここでハインさんが脱落するのだけは認められない。
「何を言って……!? これからでしょう!? これからっ、私と一緒にハインさんの新しい物語が始まるのでしょう!? なのに、ここで一人だけ抜ける気ですか……!?」
 ハインさんは私の言葉を無視して、遺言を残してるように見えた。
 それを止めようと叫ぶが、ハインさんは表情を変えることすらなかった。
「いいえ、これからのあなたの物語に私は出てきません。だって、私はあなたの物語の悪役でしたから。私は主を苦しめた悪い貴族の悪い騎士です。そんな悪役の改心の物語は……大抵、主人公たち(ヒーローヒロイン)の身代わりになって命を落とすのが常です。だから、ここまでなのです」
 セオリーだから——悪役は悪役に相応しい退場の仕方をするから物語は綺麗に収まる——だから、ここまでだと、彼は彼らしいふざけた持論で説明した。当然、そんな話、受けいれられるはずがなかった。
「騎士ハイン! いまは劇の話なんてしていません! この現実のっ、この状況を打開する方法について話しているのです!」
 私は叫んだ。しかし、ハインさんは私の話を聞くことなく、空を見上げながら返す。
「安心してください。私がおらずとも、私の意志を受け継いだ者があなたを守ってくれるでしょう。死しても、この騎士の魂があなたたち少年少女を守り続けます。それがこの私の『使命』だったのだと、いま、わかりました」
 いつだって私の我がままを聞いてくれた騎士ハインだったが、今回ばかりは違った。根を張った巨木のような力強い意思をもって、一人残ろうとしていた。
 そして、飛び降りる準備をすませたあと、彼は最後の言葉を笑顔で残す。
「主、決して使徒様を死なせないように。セラ、決してその脚を止めないように。これより騎士ハイン・ヘルヴィルシャインは、追っ手の指揮官を叩き潰してまいります」
「あ、あぁ、あぁああ……」
 止められないと痛感する。
 ジークと同じように、彼も止められない。
 そして、ハインさんとは長い付き合いだからこそわかることがある。いま、彼は彼の夢を叶えている最中だ。人生の意味を全身で感じている最中だ。彼を誰よりも知っている私だからこそ、それがよくわかった。
 だからこそ、演劇好きなハインさんに贈るべき言葉も、自然とわかってしまう——
「……た、頼みました。我が信頼する騎士、ハインよ……」
 顔を俯け、物語に出てくる厳かな主君のように騎士へ頼むしかなかった。
「はい。感謝します。——ラスティアラ様」
 最後に私の名を告げて、ハインさんは狼の背から飛び降りた。
 砂埃を巻き上げながら着地した彼が、腰から剣を抜く姿を私は見る。
 その背中は大きく頼もしく見えた。思えば、生まれた頃からずっと彼の背中を追い続けた気がする。それは子供が父親に憧れるかのような感情に似ていたかもしれない。
 そして、そのハインさんの背中は、無情にも遠ざかっていく——
 ——視認できなくなる直前、ハインさんを騎兵が取り囲むのを見た。さらに、魔力が空であるはずの彼が暴風の魔法を放つのも見た。命を削って放つ魔法の旋風を見た。
 心の一部が切り取られる感覚に襲われながら、遠ざかり消えていくハインさんの背中を私は見送った。
 私は左腕でディアの身体を抱きしめ、右手で狼形態のセラちゃんの背中を握って、後ろではなく前を向く。
 ハインさんのおかげで退路が確保された。決して、無駄にはできない。
 もう二度と振り返ることなく、私はヴァルトの街を駆け抜けた——