「天芳。短い時間でいいから、一緒に『獣身導引』をしようよ」
	「無理です。あきらめてください」
	
	 ここは、奏真国の近くにある宿屋。
	 俺たちは小凰のお母さんを送り届けるために、奏真国までやって来ている。
	 明日は首都で国王陛下に謁見する予定だ。
	
	 小凰はこれから姫君に姿を変える。
	 だから高級な宿に泊まっているのだし、お世話係の女官もやってきている。
	 謁見の準備もある。
	 だから『獣身導引』をする時間はないんだけど──
	
	「僕が天芳と導引をしたいと思うのは当然のことじゃないか」
	「気持ちはわかります。でも駄目です」
	「どうして?」
	「宿には女官の人たちがいるんですよ? 本当なら、小凰がぼくと部屋でふたりきりになってるのもよくないはずなんです」
	「黙っていればわからないよね?」
	「……そうですけど」
	「いざとなったら、天芳は窓から飛び出せばいい。『五神歩法』を使えば、屋根伝いに逃げられるよね?」
	「そこまでして『獣身導引』をやりたいんですか?」
	「久しぶりの祖国だからね。元気をつけておきたいんだ」
	
	 小凰は目を伏せて、
	
	「状況も変わっているだろうし、父上が僕たちを歓迎してくれるかどうかもわからない。でも天芳と『気』のやりとりをすれば……奏真国でなにかあっても、僕は雷光師匠の弟子で、居場所は天芳の側だってわかるだろう?」
	「……小凰」
	
	 ずるいな。小凰は。
	 そんなこと言われたら断れないじゃないか。
	
	「わかりました。『獣身導引』をやりましょう」
	「ありがとう、天芳!」
	「でも、一回だけですよ?」
	「もちろんだよ。さっそくはじめよう」
	
	 俺と小凰は『獣身導引』をはじめた。
	 そうして、蛇・鶏・猫・亀を一通り済ませた。
	
	「……それじゃ、ぼくは自分の部屋に戻ります」
	「……気をつけてね」
	
	 そうして、俺が部屋を出ようとしたとき──
	
	
	「|凰花《おうか》さま。お召し替えをお願いいたします」
	
	
	 ──扉の外で声がした。
	 奏真国の女官たちの声だった。
	 小凰の身支度を整えるために来たらしい。
	
	「……ぼくは窓から出ます」
	「……うん。わかった」
	
	
	「脱走はなさらないでくださいね? 窓の外にも女官を配置しておりますので」
	
	
	「……小凰!?」
	「……ごめん。昔の僕は部屋を抜け出すくせがあったから」
	
	 まずい。
	 女官たちは『獣身導引』のことを知らない。
	 俺と小凰が一緒の部屋にいて……しかも汗びっしょりだったら、変な誤解をされるかもしれない。
	
	「緊急事態です。ぼくは寝台の下に隠れます」
	「いい考えだと思うよ。さすが天芳だ」
	「小凰は女官たちが寝台の方を見ないように誘導してください」
	「了解だよ!」
	「それじゃ『獣身導引』──『猫液状化』!」
	
	 俺は『獣身導引』の猫のかたちで、寝台の下に潜り込んだ。
	 狭い隙間だ。人が隠れてるなんて思わないはず。
	 ここなら、なんとかやり過ごせるだろう。
	
	「よろしいですか、凰花さま」
	「いいよ。入って」
	
	 小凰が答えると、扉が開く音がした。
	
	「着替えだったね。ここは狭いから、別室に行くことしよう」
	「……凰化さま」
	「どうしたんだい?」
	「汗をかいていらっしゃいますね。そんな姿で、廊下に出るのはよくありません」
	
	 水音がした。
	 女官は、水が入った桶を持ってきていたみたいだ。
	
	「お召し物をお脱ぎください」
	「……え?」
	「私どもが汗を拭いて差し上げます。お召し物をすべてお脱ぎになってください」
	「い、いいよ。自分で拭くから」
	「宿には藍河国の使節の方もいらっしゃるのでしょう? あの方々に、凰花さまの恥ずかしいところをお見せするわけにはまいりません」
	「ここで汗を拭く方が恥ずかしいと思うよ!?」
	「わけのわからないことを……こうなったら、なにがなんでも汗を拭かせていただきます!」
	「ま、待って。せめて寝台から離れて……あ、だめだってば。こら……くすぐったい。あ、あ。わわわわわわわ…………っ!!」
	
	 宿の部屋に、小凰の声がこだました。
	 その後、小凰たちが部屋を出たのか、足音が遠ざかっていき──
	 しばらくすると、小凰の気配が戻って来た。
	
	「……出てきても大丈夫だよ。天芳」
	「……はい」
	
	 俺は寝台の隙間から抜け出した。
	 姫君の姿になった小凰が、そこにいた。
	 髪をきれいに結い上げて、刺繍の入った衣を着ている。
	 頬は朱を散らしたみたいに、真っ赤になってるけど。
	
	「きれいですよ。小凰」
	「……うん」
	「あと、小凰が汗を拭いてもらっている間は目を閉じてました。なにも見てないし聞いてません」
	「そ、それは別に気にしてないかな!? 寝台の下からじゃ、僕の足しか見えなかっただろうし……」
	
	 小凰は大きな袖で口元を隠した。
	 こうして見ると、本当にお姫さまだ。
	
	「それにしても助かったよ、天芳。素早く隠れてくれてありがとう」
	「『獣身導引』の猫のかたちが役に立ちました」
	「すごいよね。『猫液状化』で寝台の下に隠れるなんて、よく思いついたね」
	「家でもよくやってますから」
	「そうなの?」
	「はい。星怜が──」
	「ん?」
	
	 不意に、小凰が不思議な笑みを浮かべた。
	
	「天芳の妹さんが、家でなにをしてるのかな? 聞かせて欲しいな?」
	「あの……小凰?」
	「僕たちは朋友だよね? 隠し事はしないんだよね?」
	「あ、はい。そうですね」
	「じゃあ、聞かせてくれる?」
	「『猫液状化』は、星怜がぼくの部屋の寝台に隠れるときに、よく使っているんです」
	「ふーん。そうなんだ。詳しく話を聞かせて欲しいな」
	
	 あれ?
	 なんで小凰は、間合いを詰めてきてるんだろう?
	
	「聞きたいなぁ。どうして妹さんが、天芳の部屋に隠れてるのかな?」
	「小凰。大声を出したら女官さんが……」
	「うん。だから、大声を出さないように素早く教えて?」
	「あの……小凰?」
	「聞かせてくれるよね? 天芳?」
	
	 姫君の姿をした小凰は、じーっと俺を見つめ続けた。
	 こうして俺は、星怜がどんなふうに『獣身導引』を応用しているのかについて、詳しく説明することになったのだった。