槍の早朝訓練を終えて室内で汗を拭いたヴェルナーが自室に戻ると、温かい飲み物と、ちょっとつまめる程度の菓子をトレイに乗せたリリーが待っていた。
「おはようございます、ヴェルナー様」
「ああ、おはよう。今日は寒いな」
「はい。ヴェルナー様もお風邪など召されませんようにお気を付けください」
リリーの手から受け取った温かい飲み物を口に運びながらヴェルナーが応じる。実際、この日は早朝からどんよりという表現がしっくりくるような天気で、そのせいか気温も上がらない。吐く息が白くなるのは屋内でも同じである。
普段は朝から忙しいヴェルナーだが、それでも槍の訓練は可能な限り日課にしている。体を使う動きというものはとにかくすぐに鈍るからだ。
とはいえ、冬の早朝はわかっていても寒い。この日は屋外に溜めてあった水に薄く氷が張るほどの寒さだ。それに、この世界の建物は気密という意味では決して良い方ではなく、貴族の館は天井も高く部屋も広い。ヴェルナーに言わせればそんなところまで中・近世的でなくてもいい、と言いたくなる程度には冬の寒さが堪える建築様式だ。それだけに屋内に戻ってきた時、温かいものが用意してあるのは素直にうれしいのである。
「美味かった、ありがとう」
「お口にあいましたようで何よりです」
温かい紅茶とクッキーのような軽い食べ物をつまみ終え、そう感謝を伝えるとリリーも笑顔で応じた。それから、やや物憂げな表情で窓の外に視線を送る。
「もう少しお天気がいいとよかったのですけれど」
「雪でも降りそうだよなあ」
ヴェルナーもつられるように窓の外に視線を向けた。この世界でも雪は降る。王都の場合は豪雪というほどではないが、降るときは降るのも事実だ。
「そういえば『夜の底』なのか」
「はい。とはいえこれからも寒いですけれど」
『夜の底』というのはヴェルナーの前世で言えば冬至のような日になる。一年間で一番夜が長い日をさしており、この世界でも地軸の偏りがあるのだろうかと転生直後のヴェルナーは疑問に思いはしたものの、知ったところでどうにもならないと調べるのをやめていた。これには王都襲撃に備える方が先だったという事情はあるが、天文学には詳しくないという散文的な理由もあっただろう。
ちなみにヴェルナーの前世におけるクリスマスも、もともとは冬至祭であったものがキリスト教と混じった結果、そう呼ばれるようになったものである。
「リリーは寒くないか」
「少し寒いですけど、温石を使わせていただいているのでずいぶん楽です」
温石というのは魔道具ではなく、手ごろな大きさの石を熱して布で包んだ簡易懐炉である。それでも、本来なら薪が高価ということもあり、火を点け放しにしてあるわけでもないため、普段はそうそう使えるものではない。
今年、伯爵邸で使用人たちにまで広く使われているのは、子爵としての給与分、予算に余裕があるヴェルナーがその分の予算を捻出していることと、皮肉な話であるが魔王復活後に魔物が多く出没するようになったため、魔石が潤沢に供給されるようになっているのが大きな理由である。
「まあ、王都は道が整備されている分ましな方だけど」
「そうですね。村で雪が降ると本当に苦労します」
巡礼の旅で通りがかる人も減りますし、とやや苦笑交じりにリリーがつぶやいた。宿の看板娘だったリリーからすれば、雪とはまず『客が来なくなる厄介な天候』という印象なのだろう。
この中世風世界でも雪というものは問題が大きい。道路がぬかるんでしまっても、あるいは雪に埋まってしまっても馬車や荷車のような車輪を使う輸送道具の使い勝手は悪化してしまう。各家庭に冷蔵庫のような保存用の道具もないため、新鮮な食材を入手することも困難だ。それでいながら火を焚くために使う薪など、生活に必要な物資は多くなる。冬は労働が増えつつ耐える季節であるといえるだろう。
「ソリや雪靴はありますけど、やっぱり大変ですしね」
「だよなあ」
ヴェルナーも思わずうなずいた。貴族の館でも馬車や庭の草木を手入れする手間など、楽な季節ではない。まして森の中の村では生活必需品ですら苦しくなることだってあるだろう。
「冬に外で遊ぶって贅沢だったんだなあ」
「そうですね……子供の特権ですよね」
ヴェルナーは前世での印象があったのでそうつぶやいたのだが、リリーは小さな頃に雪の中で遊んでいたことを思い出したのであろう。発言に微妙なずれが生じている。それに気が付いたヴェルナーが軌道修正を図った。
「庭で雪玉を投げていたら馬小屋の壁に当たって馬を驚かせて叱られたことがあるな」
「村では雪玉を投げるのは禁止されていました」
「禁止?」
「はい。運を投げ捨てるからって」
不思議そうな表情を浮かべたヴェルナーの顔を見て、リリーが言葉を続ける。
「昔の話らしいのですが、村のいたずらっ子が、雪の降るたびに誰彼構わず雪玉をぶつけて逃げるってことを繰り返していたそうなのです。けれど、ある時、その子が魔獣に襲われて命を落としてしまいまして……」
その現場を当時の村人が目撃した際、魔獣はそのいたずらっ子の右腕を咥えていたのだという。
「それ以来、村では雪玉を投げるのは運を投げ捨てることだから、って言い伝えられてきました」
「なるほどねえ」
そんな話は前世はもちろん王都でも伯爵領でも聞いたことがない、とヴェルナーは思わず感心した表情を浮かべてしまった。このような形で地方にはそれぞれの伝承や言い伝えが発生していくのであろう。他人に言えることではないが、おそらく前世日本で子供が溺れた川に河童が出るというような伝説が生まれるのと同じようなものなのだろうな、と内心で結論付けた。
「特に冬だからそういう話が生まれるのかもしれないな」
「そうかもしれませんね」
雪が降ると閉塞感というかある種の隔離世界になる、そういう環境である。道路の整備や輸送技術の発展など、必要とされる要素が多すぎる。前世知識の持ち主でもあるヴェルナーでさえ一足飛びにどうにかするのは無理だろう、と諦めた。その一方で、そういう季節でも過ごしやすくするためには何から手を打てばいいのか、ということを考えるのは仕事中毒人間といわれても仕方がないところであったかもしれない。
冬の伯爵領での生活環境を改善するための工数を考え始めたヴェルナーの横で、不意にリリーが口を開いた。
「あ」
リリーの声に顔を上げ、ついでその視線の先に目を向けると、曇天の空から白いものが舞い降りてきている。降ってきたか、とヴェルナーがややうんざりした表情を浮かべると、ぽつんと独り言のようにリリーが口を開いた。
「それでも、冬は嫌いではないです」
「?」
今度は不思議そうな表情を浮かべたヴェルナーに、リリーは小さく微笑んで見せた。
「冬は薪を集めるの大変でしたし、高価だったので。だから家族みんなで、同じ部屋に集まって、炉のお鍋の中のものを一緒に食べて……」
家族がすぐそばにいるのがわかる、ほっとできる時間でした。過去形でそう口にしたリリーにヴェルナーは胸を突かれた。生家を失った過去を忘れたわけではないということと、それでも王都での今の生活を大切に思う気持ちの両方が感じられたからだ。
「そうか」
何か言おうと思い、口にすると何を言っても軽くなるなと思ったヴェルナーはリリーの傍に立った。並んで空から降ってくる雪を窓越しに見上げる。
「……今度はマゼルたちと一緒に見れるといいな」
「……そうですね」
その後、二人は並んで空から落ちる雪を黙って見ていたが、その沈黙は二人にとって、決して居心地の悪いものではなかった。