「まぁ。一時避難のお屋敷に移動するのですか?」
ディアがその話を聞いたのは、ファーシタルでの最後の舞踏会を終え、幼い頃から住んでいた夜菫の棟を後にする、まさにその準備の中のことだった。真夜中はとうに過ぎ夜明けに近い時間であったが、移動後にたっぷりと寝て構わないと言って貰って一安心したばかりのところだ。
「先程も話したが、魔術の所有値的にまだ俺の城に連れて行くのは難しい。体質を変えるまでの間の仮住まいの屋敷についても、お前の受け入れに適した状態に整えるのはこれからだ。今夜の舞踏会を終えてからでなければ、どの程度の調整が必要か分からなかったからな」
「国内に留まるのはご不快でしょうが、我々の土地ですので過ごしやすい屋敷かと思いますよ。私とノイン様もご一緒させていただきます」
「はい。であれば、安心してお任せします。ただ、国内にそのようなお屋敷があったのは意外でした」
「系譜の者達が、この国に滞在する際に使っていた屋敷だ。人間の目には触れないように管理してきたが、今はもう見えるようになっているだろう」
「そうなると、見知らぬお屋敷があるぞと、近くに住んでおられる方々が訪ねてきてしまいそうですね」
「見えたとしても、屋敷の周囲には迷いの道を敷いてある。敷地内に入るのは不可能だ。……加えて、明日からはこの国の人間もそれどころではないだろう。ある筈のない屋敷や施設などの出現は、俺の領域に限っての事ではないだろうしな。既にいくつかの土地が売買済みになっている」
そう告げたノインに、ディアは思わず目を丸くしてしまった。
今後、この国には関わらずにいるつもりだが、だからこそ初耳の事も多い。約束を違えたファーシタルが夜の国の王様のものになった今、いよいよ人ならざる者達が参入してくるのだという。
「……そんな方々が来たら、ご近所の方が砂になってしまうのではありませんか?」
「知った事かと言いたいが、産業を残す以上はその辺りは手を打つ。他の連中も、息のかかった人間達を送り込むか、この土地の人間に影響を与えない姿で訪れるかのどちらかだろう」
そこまでは説明してくれたが、ノインが少し煩わしそうだったので、ディアは大人しく引っ越し準備に戻ることにした。そろりと荷物の整理に戻ろうとすると、作業を手伝ってくれていたディルヴィエが小さく微笑む。
「ノイン様。漸くディア様を手に入れたとはいえ、国の外に連れ出すまでは心が休まらないのでしょうが、説明もなく不愉快そうにされるのは、あまり褒められた事ではありませんよ」
「ディルヴィエ……」
「さて。そろそろここを出ましょう。ディア様、何か持って出たい品物はありますか?」
そう尋ねられ、ディアは目を瞬いた。
(ここから、持っていきたいもの……)
夜明け前の夜菫の棟の自室は、青を煮詰めたような闇の中にシャンデリアの光が落ちる。きっと、王宮内のこの棟以外の場所では、とんでもない騒ぎが続いているのだろう。それなのに、ここはなんて静かなのだろうと思いながら、ディアは部屋の中を見回した。
(衣類を持っていく必要はないそうだから、そうなると、必要な荷物なんて何もないのよね……)
鏡台の上の化粧品やブラシなどはさすがに必要かと思えば、そのような物も全て新しい物を準備してあるという。何から何までを揃えて貰うのは申し訳ない気もしたが、必要な品物の選別や購入は今のディアには難しい。おまけにノインは、大きな国でも買わない限りは問題のない財政状況のようだ。
部屋の中を歩いて回り、窓の向こうの雪の中で咲く白薔薇を見る。
(あの薔薇を持って行きたいけれど、移動を前提にしていない大きな鉢を持ち出すのは難しいだろうから……)
だからディアは、その望みは口に出さなかった。
何から何までお世話になっているのに、しょうもない我が儘でノイン達を困らせても仕方ないと思ったから。
「……となるとやはり、昨晩買って貰ったもの以外に持って行きたいものはありません」
「ふむ。ではすぐに移動しても良さそうですね」
「ディア。……あるんじゃないのか?」
ここで、ディルヴィエの言葉を遮り、ノインがそう尋ねた。紫色の瞳でじっと見つめられ、ぎくりとしたディアは、困り果てて窓の外に視線を向けてしまう。
「あるなら言え。遠慮はするな」
「……バルコニーにある大きな薔薇の鉢は、さすがに重くて運べませんよね? ノインに色を変えて貰った思い出の薔薇なので、難しければ、これから向かうお屋敷に飾れるように花枝を切っていってもいいかもしれません」
おずおずと薔薇の話をすれば、呆れたような目をしたノインにディアは小さく項垂れる。考え込む様子のディルヴィエの表情を見ても、やはりあれだけ大きな物を今すぐに動かすのは難しいのだろう。
「あの程度であれば鉢の運搬自体は簡単でしょうが、ノイン様の手が入っていても、あの薔薇はこの土地に見合った品種ですから、ファーシタルの外での管理は難しいでしょう。……ですが、思い出の品であれば、絵の中に移されては如何ですか?」
「……あの薔薇を、絵の中に移せるのですか?」
「ええ。魔術による取り込みですので、画布の中に薔薇に見合った環境を整えることが出来ますし、ディア様の持ち物として、これからもずっとお手元に残せますよ」
慌てて振り返ると、ノインも頷いてくれる。
「そうするか?」
「はい!」
そう決まれば早速、バルコニーの薔薇を画布の中に入れる作業が始まった。
(薔薇を、絵の中に入れてしまうなんて……!)
目を輝かせて作業を見守るディアに、ノインが小さく笑う。
すぐに画布が用意され、ノインは、ディア達を連れてバルコニーの扉を開けた。
雪混じりの風が吹き込む中で画布を広げ、ノインは、咲いている薔薇の花びらに指先でそっと触れる。その途端、薔薇の花がぼうっと光った。
「………薔薇が!」
ディアが声を上げてしまったのも、無理はない。
はらりと落ちた花びらが画布に触れると、絵の中に薔薇が芽吹いたのだ。
そして、絵の中の薔薇がどんどん育っていく一方で、バルコニーに置かれた鉢で枝葉を広げていた薔薇が小さくなってゆく。
そして最後は、土の中に吸い込まれるようにして消えてしまった。
「背景は、後でどこかから持ってこさせる」
「は、背景を………」
またとんでもない話が出てきて目を丸くしていると、こちらを見て微笑んだノインが、見事な薔薇の絵を手渡してくれる。ディアが両手で持てるくらいの画布には、息を呑む程に美しい薔薇の絵が現れていた。
「……綺麗ですね。これで、あの夜の思い出も持っていけます」
堪らずに笑顔になったディアがそう言えば、こちらを見たノインも優しく微笑んでくれる。
では、もう忘れ物はありませんねとディルヴィエに言われ、今度こそディアは、何の心残りもなく頷いた。
(……ああ。もう、ここに戻る事はないのだわ)
それでも、ほんの少しだけ感傷めいた思いも過ぎったが、新しい宝物となった薔薇の絵が腕の中にあるので、こちらの方が大事なくらいだ。
そうなるともう、ファーシタルの王宮には、ディアが惜しむようなものは残っていなかった。
どこからともなく現れた不思議な扉が開き、ノインが背中に手を添えてくれる。
ディアは微笑んでノインを見上げ、一緒にその扉の向こうに向かった。